●(ちょっと、昨日の補足)グルスキー的な感じは、実は「試み」や「感覚」そのものとしては、そんなに嫌いというわけではないのだと思う。しかしそれがアートという文脈のなかに置かれると、というか正確には、それをアートという文脈のなかで成立するような形---要するにアート界で評価されるような、高価で売買されるような形---に落とし込もうとすると、妙に尊大な感じになってしまうことが嫌なのだ。というか、尊大になってしまうということに無自覚であること、あるいは、尊大になってしまってもかまわない(しかたがない)という態度が、おそらく嫌なのだと思う。
本当はあの感じは、もっと軽い、サブカル的なノリの、「おー、なにこれ、かっけー」みたいな感じのものだと思う。細部が詳細であるにもかかわらず、それらが不思議と統制がとれてつるっとしている感覚にしても、それが「今までにない妙な感覚」として楽しまれ、味わわれるという分には、とても面白いと感じられる。変なことやってて面白いよねー、という生き生きした感じとして。しかしそれが、あのような、人を威圧する尊大なサイズをもち、美術史や絵画史の文脈---あるいは哲学とか---に自身の正統性の根拠を求めるような操作がなされる(つまりそうやってコネをつくると正統な「アート」になる)と、とたんにそれは、「もう勘弁してくれ」という感じのものになってしまう。「アート」であろうとすることで、どれだけ魅力が損なわれているのか、というか別物の変質してしまっているということが、何でわかんないのか、と。もともとオタクのダメ男だった人が、趣味で起業した会社が成功して社会的に認められたからといっていきなり「日本のあるべき未来」とか「教育問題」とかを語り始めるのかよ、みたいな嫌な感じ。
いや、これだと成功するのが悪いと言っているみたいだけど、全然そういうことじゃなくて、それは別にどっちでもいいことだ。
要するに問題だと思うのは、あの、人を従属させるような尊大なサイズ(と、それが偽の崇高性であるかのように機能しがちであること)に対してどうしてそんなに無感覚でいられるのかということに尽きていて、アーティストとしてそれはどうなのかと、ぼくはどうしても引っかかってしまう。
例えば、グルスキーの作品には、被写体に対する興味がほとんど感じられない。あるいは、対象への興味や関心が意図的に括弧に入れられている。つまり、「それ(対象)」を撮る---示す---ことが目的ではないんだ、と、作品が言っている、という形式をもつ(対象を消しはしないが、対象に対して視覚性、形式性の過剰の方が優位に立って、意味をいわば後回しにさせる)。最も顕著な例は「パシフィック」というシリーズで、これらの作品では、「地球に対する興味」ではなく、「画面効果に対する興味」によって、その結果として被写体に「地球(海と島の空撮)」が選ばれているとしか思えない。海を空撮すると、写真がまるで絵画のように見える。地球が「絵画」という「形式」の内に閉じ込められる。このような感触(意図的な本末転倒)自体は、世界の裏返りのような感覚を生み、とても面白いと言える。それは、写真というメディアがもともともつ抽象性とも合致する(写真が「写す」のは光であって意味ではないという、みもふたもなさ)。しかし、それが、アートという文脈のなかで(絵画史との絡みから)尊大な位置を与えられて、あたかも「偉大な絵画の代替物」であるかのように扱われてしまった途端、「意図的な(ちょっとした)本末転倒--世界の裏返り」の面白さは消え、それが、視覚的な効果の強さによって偽の崇高性として機能する、権力的な空間が生まれてしまう。内実を失った---形式に屈服した---細部の視覚的強さによって、形式性(というより、能動的な、事物を屈服させるような操作性の優位)の発動そのものが「崇高なもの」と称揚されてしまうような感じになる。ここに、詳細な細部を従える強力な「俯瞰性」がたちあがる。
ぼくはどうも、アートというものが、(デジタル的な加工による)このような強力な「俯瞰性(超越的視点)」をとても素朴に必要とし、称揚しているように感じられてしまうことに、うんざりしてしまうようなのだ。まるで、デジタル的なテクノロジーによって可能になった視覚像を、神の視点の代替物として称揚しているようにみえてしまう。
(多くの人は、人を威圧するような、服従させるような、強く統制する力が働いている状態を、簡単に「迫力がある」とか言うけど、そんなもの全然迫力などではないんだと言いたい。ポロックの画面にはそんなものはないし、ニューマンには多少あるかもしれないけど、そこには抑制がちゃんとある。)