国立新美術館へ行った。MOTフランシス・アリスを観に行こうと思っていたのだけど、調べたら「貴婦人と一角獣」展が15日までで終わってしまうと知って、とりあえずこれは観ておこうと思って六本木の方にした。グルスキーも、まあついでにという感じで。
アンドレアス・グルスキー展。観る前から分かっていたけど、嫌いなんだよなこういうの、と改めて感じた。この大仰な退屈さは何なのだろうか、と。たとえば、松江泰治を観るとあんなに興奮するのに、何故グルスキーではまったく興奮しないのだろうか、とか。写真で、細部が異様な解像度で詳細に写っていると、どうしたって細部に目が引きつけられてしまう。しかし、グルスキーの写真は、あんなにも細部が過剰なのに、そこに入ってゆく気がまったく起きない。この絶妙に「興奮しない感じ」こそがキモであり「現代美術」っぽさ(いかにもアートっぽい距離感)で、ある時期以降から現れた新しさである。これが(この良さが)分からないお前は古いのだ、ということは自分でもよく分かっているし、それを否定する気はないのだけど。
グルスキーの写真を観て感じる退屈さは、アウトサイダーアート的な単調さに近いものかもしれない(とはいえ、退屈さと単調さは違う)。それは、圧倒的な密度があることと、にもかかわらずきわめて単調であることの「吊り合わなさ」によって生み出される感触だと言える。一般に(あくまで「一般に」ということだけど)アウトサイダーアートから感じられるのは、過剰な熱量と、単調さと律儀さだと思う。すごい熱意で描かれているのだけど、画面を制御する原理はきわめて単純で、しかもその原理に異様なまでに律儀なので逸脱や変調や展開がなく(故に通常の意味でのバランスや調和は失調しているのだが)、「全体」として観るととても単調に見える。しかしそこでは多くの場合、単調であることより、過剰な熱意がかけられていることと、過度に律儀であることによる異様さ(通常のバランス感覚とは異なる秩序感)の印象が強く出てくるので退屈ではない。並はずれて単調であることの凄味のようなものが見える。
だからもちろん、グルスキーの作品はアウトサイダーアートとは違う。グルスキーの退屈さは、細部を綜合する原理が単純で、その単純さにどこまでも厳格であることからくるものではない。それとは逆向きで、綜合の原理が「上から」非常に強力に画面全体を統制しているところからくるように思う(それは、フレームがまずあって、その内に細部がある写真というメディア---デジタルな加工がされているにしても---と、細部の積み重ねによって全体に至る「描く」こととの違いとも言えるかも、アウトサイダーアートにおける原理の厳格さは、描くという行為がその度ごとに揺らいでしまうという強い不安からも来ているように思う)。つまり、異様なまでに高い解像度で迫ってくる詳細な細部が、皆、非常に強力な権力をもった原理によって強引に整列させられているように見えるということ。だから、一つ一つを細かく追ってゆくことで全体を観ることでは得られない「驚き」を得られそうだという予感が生まれない。勿論、それを高度な構想力(構築力)による達成と褒め讃えることも可能だろう。細部と全体の関係(あるいは「抗争」と言ってもいいかもしれない)において、常に、完璧に「全体」におけるコントロールが勝っているように見える(それは、ポロック的なオールオーバーとはまったく異なる事態であり、ポロックの作品を「あんな風に」--作品の首を締めて窒息させるように--撮っていることからも分かる、ポロックの構想力は決してトップダウン的なもの「だけ」ではないはず)。ポロックには隙間があるが、グルスキーにはない、というような。
細部が過剰でありながらも、その過剰さそのものが極めてクールであるような感触。世界から「熱」や「雑」や「隙間」を抜き取る技法。そのような技法を「ポップ」と言うとすれば、グルスキーは非常に高度にポップであろう。特に、写真というメディアはおそらく「雑」を引き出す方が容易であり、それを抜き取るにはよほど高度な操作(ハードな管理)が必要なのだろうと推測される。まして細部をぎっちぎちに詰め込んでいるのだから。そこに写っているのはこの世界とそっくりでありつつ、まったく違う何かである。世界から、リアリティーだけを巧妙に抜きとってみせる手口は簡単なものではない。それは、一見、細部が過剰であるかのように見せかけておいて、しかしその実、細部というものの力をいっさい剥奪してみせる(細部が全体に完全に従属している)という身振りによって実現されている(細部が過剰であるかのようにちゃんと「見せかけ」なければならない、という点でそれは容易なことではないだろうが)。デジタルテクノロジーが、世界の多様性をつかみ出すためでなく、屈服させるために使われているように、ぼくには見えてしまう(それは、世界を「アート」の側に屈服させようとしている身振りのようも、ぼくには感じられる)。
細部が過剰な写真の魅力は、意識を過剰にすることで無意識までも意識へと巻き上げ、いわば意識を無意識に浸食させ半ば無意識化するようなところにあると、ぼくには思われるのだけど、グルスキーの作品における過剰な視覚は、微小な無意識の震えまでもを強引に意識へと従わせようとする、つまりは無意識を強く抑圧するというような方向性をもつように感じられた。透明さを志向する明晰化への傾倒であり、すべてをコントロールしたい---できる、というマッチョ感のようなもの。だからここでの過剰さとは、ハリボテの過剰さだろう(その「ハリボテ」感がいいんだし、リアルなんだよ、という人がいることは知っているし、それを否定はしないけど)。
グルスキーの作品を観ると、この人はすごくよく絵画が分かっている人だという感じがする。グルスキーは、多くの画家たちが達成してきた「成果」だけをうまく掬いとって、自分の作品(のフレーム操作)に利用している。それはぼくにはどうしても搾取のように感じられてしまう(特に「バンコク」のシリーズなどを観ると、愛する人の死体が凌辱されているようにも感じられてしまう、「パシフィック」なども、「地球」を「アート的な視覚効果」のために搾取しているようにみえる)。
ここに書いているのは批判ではない。ただ「嫌いだ」と言っているだけ。それは非常にか弱い、個人としての好みの発露にすぎない。それは正しさによって裏打ちされていないから、そんなこといくら言ったとしても世界は決して変わらない、というようなものかもしれない。
好きではないが大したものではあるとは思う。グルスキーの作品はヨーロッパの「アート」というものが現在置かれている状況のある一面を明確に示してはいる。それはある「文脈」における必然的な帰結であると同時に高度な達成でもある。高く評価されて当然だ。ただ、ぼくは、個人としての趣味として、あるいは、個人としての人生として、その文脈には決してのっからない、のっかりたくない、のっかれない、と言っているにすぎない。
(なんか力が入り過ぎちゃってるけど、「うーん、どうしてもリヒターとかグルスキーとか受け入れられないんだよなあ……」ということです、こういうものを受け入れられない自分の「ドメスティック傾向」のようものも感じてしまうわけですが。)
●とにかく理屈抜きにあの「大きさ」が嫌なんだよなあ、と。正直言えば、小さい作品には、それほど嫌いじゃない---というか、むしろ「好き」と言える---ものもいくつかあった。嫌いな作家にも好きな作品があるというのも、作品というものの面白さだと思う。「ライン川」とか「チューリヒ」とか、すごくいいんだけど。
●「貴婦人と一角獣」は、そこまですばらしいという程とは思えなかった。ただ、ぼくにとって「作品を観る」という経験は、グルスキーではなく、あくまで「こっち側」の方にあるのだとは思った。