●国立新美術館で「印象派を超えて――点描の画家たち」。密度のある展覧会とはとても言えないが、「地味だけど良い作品」がいくつか観られたのでよかった。シスレー、ピサロ、ドラン、モンドリアンがよかった。あと、ゴッホのデッサンが素晴らしかった。
例えば、モンドリアンの初期の風景画(「突堤の見えるドムブルフの浜辺」)とドランの風景画(「コリウール港の小舟」)を比べると、ヨーロッパの北の方の人と南の方の人との光の捉え方の違いをすごく感じる。おそらく「光」に対する感じ方、考え方が全然違う。初期のモンドリアンは、(くすんだ光を特徴とする)ハーグ派にルーツを持ちつつ、同時に表現主義に近い色彩の感覚がある。表現主義もまた、ムンクはノルウェーだし、ノルデはドイツの北の方の人だから、基本として北の光で、それは、印象派から、ゴッホ、ゴーギャン、そしてマティスへとつながる南の光の系譜とは根本的に異なる。モンドリアンは後に抽象的な作品へと移行しても、ずっと北の光の人だと思う。
ゴッホも、モンドリアンと同様にハーグ派にルーツをもつが、そこから次第に南の光の方へと移行してゆく。とはいえ、デッサンを観ると、ゴッホにとって「色彩」は必ずしも必要なものではなく、本質的な問題でもなかったのではないかと感じられる(それはゴッホの色彩を否定するということではない、ゴッホの色彩は――打率は高くないと思うけど――時々本当にすごい、ただ、ゴッホの色彩は、ゴッホの作品をやや分かりにくくしているようにも思われる)。
ゴッホのデッサンからは「大気の動き」がはっきりと見えるように感じた。大気がぐわーっと動いているという感じ。おそらく印象派的な風景画を描くシスレーやピサロとは、風景から見て取っているものが違うのだと思う。印象派が見ているのは空気のなかでの光の複雑な屈折や乱反射なのだが、ゴッホが見ているのは、大気そのものが動き、刻々と変化している様なのではないかと、デッサンを観て思った(「うねり」そのものがタッチとして描き込まれているタブローよりも、デッサンの方がより生々しく、ダイレクトに大気の動きが感じられるように思う)。ゴッホには、大気が動く様が手に取るように見えていたのではないか。そして、この「大気を見る」感じは、ハーグ派などのオランダ絵画からくるものでもあるように思う。
(海の近くの土地の空は、内陸の空とは大きく違うということを、地元に引っ越してから日々感じている。)
セザンヌが風景から見ているものが、プレートテクトニクス的な意味での地球=地形なのだとしたら、ゴッホが風景に見ているのは、気象学的な意味での地球=大気なのではないか、とか。
●東京都写真美術館で高谷史郎「明るい部屋」。これはすごかった。こんなにすごいとは思わないで気楽に行ったので驚いた。油断していたらいきなり腹を殴られたみたいな衝撃。興奮するのと同時に、たとえば「Toposcan」のような作品を見せられた後に、画家としての自分に何かできることがあるのだろうかと、打ちひしがれてしまった。
「充分に発達した科学技術は魔法と区別がつかない」というのはアーサー・C・クラークの言葉だけど、「Toposcan」を観ると、「充分に発達したテクノロジーは自然と区別がつかない」と感じられ、そしてその時には、「自然」という言葉の意味はまったく別物に変質してしまう。自然=世界への感触が根本から書き換えられる様を、ものすごい感覚的な精度で見せつけられ、それが脳に刷り込まれてしまうような感じ。
実際に存在する物を、この目で見、この手で触れることによって得られる感覚的な質の強さや精度を超えるような「感覚」を、デジタル的な映像や音声という人工的な技術によって突きつけられる時、リアリティは転倒してしまう。そんなこと「理屈」としては言い古されてさえいるが、それがまさに実際に示されてしまったような感じ。
それがたんに技術的な解像度の問題だけでなく、研ぎ澄まされた「美しさ」をもった形式として現れている。たんに、圧倒的に高解像度である映像や音声(によるスペクタクル)というのであれば、これよりもっとすごいものはいくらでもあるだろうと思う。ハリウッド映画とかがそうだし、視界を覆うようなメガネをつけて、バーチャルな3D空間内を歩きまわるということさえ技術的には可能だというし。だけどそれだけではなく、そこに、世界そのものをデジタル信号=形式へと還元してしまいたいというような「空」への強い欲望と、その欲望に十分すぎる説得力を与え得る洗練された「美しさ」をもつ形態とが付け加えられて、その「技術的感覚の精度」が与えられると、字義通りに「目を奪われる」という感じで、本当に、実際に、この世界この宇宙は、この作品が示すように崩壊し生成する(している)のではないかと(つまり、そっち=作品の方こそが現実ではないかと)、感覚的に説得されてしまう感じになる。とにかくただ空虚に美しく、その空虚な美しさの強さがこの世界の存在そのものを上回ってしまうという感じ。
今日はもうただ打ちのめされてしまったので、もう一度仕切り直して、じっくりと観られる時間を年内にもつくりたいと思った(ぼくの知る限りでは、この強さに拮抗し得るのは、井上実の絵画だけであるように思う)。「Toposcan」というビデオ・インスタレーションの作品に打ちのめされてしまったわけだけど、それ以外の写真の作品とかもすごく面白い。