ゴッホがもし、弱度の色覚異常だったと仮定すると(そうであった可能性があると言われているらしい)、ゴッホには自分の描いた絵がこのように見えていた(ゴッホはこのようなものとして絵を描いていた)はずだ、というシミュレーションをしている記事をみつけた。
http://asada0.tumblr.com/post/11323024757
ちょっと画像が小さすぎるように思うのだが、これはとても面白い。確かにそうかもなあと、納得してしまう部分もある。全体的に、物の描写と三次元的な空間表象という観点からは補正後の作品の方がすぐれているように見える。それと、補正後の作品の方が、常識的というか、普通に見やすい感じになっている。
補正後の作品は、ゴッホに特有の、あの気持ち悪い感じの黄緑が黄色に近い方向で抑えられ、いかにも唐突な感じで出てき過ぎる赤系の色が、茶色に近い方向で抑えられている気がする。
花畑を描いた風景画や種まく人、それと最後に示されている自画像などは、補正によってあきらかに作品の質が数段向上しているように思われる。
ただ一方でこれだと、ゴッホの色彩の革新者としての天才的な側面が消えてしまうようにも感じられる。たしかにゴッホには、色彩に関して不正確だと思えることが時々ある(信じられないくらい色の響きが気持ち悪い絵もある)。しかしその不正確さは大胆さでもあって、それがうまくはまった時の神がかり的な、キーンとくるような「冴え冴えした感じ」は、逆立ちしても真似できないと感じる。
(そして、時に不正確にも感じられる色彩の響きのゴッホ的「冴え冴え感」を、少し抑えたやわらかい形でより正確に用い、発展させることが出来ているのがマティスだと思う。)
例えば、アルルの跳ね橋を描いた絵。補正後の方が確かに納まりがよいのだが、これだとモネとあまりかわらない絵になる。この記事を書いた浅田さんという方が不自然だと書いている部分、水面のなかの黄緑こそが、ぼくにとっての(あくまで、ぼく自身の絵画経験のなかでの、ということだが)ゴッホの光であり、ゴッホの色彩なのだ。この水面のきらめき、ブルーに混じり合う黄緑、この色の透明な響きこそが(実際に行ったことがないので)ぼくのイメージのなかのアルルの光でもある。そしてこの水面の光は、空の色ともすごく澄んだ響きを響かせているように見える。
あるいは、夜のカフェを描いた絵。この黄緑色のライトの光はいかにも突飛過ぎるし、気ちがいじみて見える。補正後の色彩の方がずっと納得しやすいし、いい感じだと思う。しかし、ぼくがここでゴッホの天才を感じるのは、この黄緑の光ではなく、それに照らされて反射しているテーブルの表面のグレーに近い緑色の冴えた感じなのだ。ぼくにとっては(あくまで、ぼくの絵画経験としては、なのだが)、この絵は、なによりもこのテーブルの色彩の素晴らしさによって成り立っているもので、気ちがいじみた黄緑の光は、このテーブルの反射光の「冴え」を際立たせるためのもの(そのために要請されたもの)だと感じられる(そしてこの反射光は歩道の上にも散らばっている)。確かに補正後の方が、絵としては「いい感じ」なのだが、テーブルの上(と舗道と)に散らばるこの色の特別に冴えた感じは消えてしまう。
(でも、星月夜の絵は、補正後の方がすごみを増しているように見える。)
確かにゴッホの色は相当ヤバイし、いっちゃってることがある。でも、そのようなヤバイ領域に踏み込むことではじめて得られる、特別に冴えた、背筋に電気が走るような冴え冴えとして響きを獲得できているというように、ぼくには感じられる(勿論、すべての作品が、ということではまったくないけど)。あくまで、ぼくにはそうとしか思えない、ということだが。
●こう書いてくると、ゴッホ色覚異常だったという話を否定しているようにみえるかもしれないけど、必ずしもそうではない。普通に見れば、確かに補正後の方が「いい絵」になっている。だから、ぼくがゴッホから感じていた、特別な、逆立ちしても真似できない「冴え冴え感」そのものが、たんにぼくの勘違いであったということもあり得ると思う。だがそうだとしても、ぼくがゴッホの絵から「冴え冴え感」を感じてしまった(そして今も感じつづけている)という事実は、どうしようもなくある、ということなのだが…。
●とはいえ一方で、ゴッホにはインクによるデッサンが多数あって、これが本当に素晴らしく、それを見ていると、ゴッホには色がない方がいいんじゃないか、本当は色を使うことはあまり得意ではなかったんじゃないか、と感じる事はある。補正後の画像は、そのペンによるデッサンの感じに近づいているようにも思え、そうなるとまた、弱度の色覚異常という話に、強い説得力を感じることになる。
●考えてみれば、色覚異常だったことと、紙一重の冴え冴えとした響きを実現できたこととは、別に矛盾することでもなんでもない。
このようなシミュレーションが面白いのは、物を見ることや感じること、あるいは、見たり感じたりすることについて考えることを、刺激し、活性化してくれるからで、逆に、こういう科学的・工学的な操作を、「ゴッホのあの色は、色覚異常によって説明できる(既に説明済み、はい終了)」みたいに、物事の固定的な理解として受け取ってしまうと、本当につまらないことになる。