●感覚というと、何かあいまいで根拠のないものであるかのような印象があるけど、そうではなく、「この感覚」というのは他とははっきり違うものとして厳密にある。しかし、それは説明も論証もできないから、それを示すには、その感覚が実現されている表現物を指さして、「この感覚」と言うしかない(「この味」「この音」「この色」みたいなこと)。そしてそれが他人に通じる保障もどこにもない(それは共有可能な「物語」とか「問題」とかいうものとは根本的に違うものだから「分かる人にしか分からない」)。画家がやっていることは、「この感覚」をなるべく厳密に示そうとすること、それだけだ(「分かる人にしか分からない」というのは、分かる人が偉いということではない、たんに、分かる人と分からない人がいる、というだけ、それは、誰にでも、分かることと分からないことがあり、出来ることと出来ないことがある、というのと同じ)。
では画家は、自分が感じている「この感覚」を無条件に信じているのか。そんなことはない。むしろ常に「この感覚」を扱っている分、それがいかに捉えがたく雲をつかむようで、頼りにならなくて、いい加減で、その時々のこちらの状態や状況によって誤差が大きいものであるのかを思い知らされている。だからこそ、様々な指標や方法や技術や言い訳(外的参照)やオマジナイを駆使して、「この感覚」を逆さにしたり裏返したり引っ張ったり切り刻んだりくちゃくちゃにしてみたりして検証しながら突き詰めてゆくのだが、それが「感覚」である以上、最終的にそれを保証してくれるものはどこにもないから、ある地点で(ある「手応え」のようなものを得た時点で)、こうなったら自分のもつ「この感覚」を信じるしかないと覚悟を決めて、えいやあっとジャンプするみたいにそこに飛び込む。その成否は、他人や歴史に預けるしかない。
「この感覚」はたんに「わたしの感覚」を表現するものではなく、世界そのものの一部である何かに届いていることを祈って、作品を世界へと送り出す。
●ポスト印象派の革命的なところは、絵画において「光」や「空間」が、明暗や光源の設定や遠近法によってではなく、平滑に塗られた色彩の関係や響きによって表現できることを意識的に再発見したことだと思う(光を表現するのに影を必要としない、黒を光として扱う、等)。だがしかし、どの時代においてもすぐれた画家はそんなことは当然のように既に知っていた。
●『スピノザの方法』という本の表紙になっているフェルメールの絵を見ていると、フェルメールには既にモンドリアンのすべてがあるんじゃないかと思える。それは、たんにこの「小路」という絵が建物を描いていて、水平と垂直の直線のリズムが支配的だからというような表面的なことではない(そういう次元だったら似てる絵はいくらでもある、とはいえ、複数のフレームがひしめき合って「一つのフレーム」が成立しないような構成が水平と垂直のリズムと関係している点は共通していると思うけど)。そうではなく、フェルメールの色彩(の響き)から、モンドリアンが直接的に想起されるということ。つまり、フェルメール「小路」の、黒と白と赤茶色と黄土色と緑色と青の響き方から感じられる光の質と、モンドリアンの絵の、黒と白と赤と黄色と青との響き方から感じられる光の質が、同じというか、とても近いものだと感じられる、ということ。





●こうやって改めて見ると(とはいえ、ぼくはこの二点とも実物を観たことがないので、あくまで図版上の話で、というか、本の表紙を見て、そのように感じたという話で、その意味で今日書いていることは「作品」についての話としての「精度」はアヤシイと言わざるを得ないのだが)、モンドリアンの絵ってすごく普通だなあと思う。普通というのは、オーソドックスな「いい絵」だ、という意味。オーソドックスな風景画の空間を感じる。これは1920年ころの絵で、もう少し後になると風景画っぽい雰囲気は減少してゆくのだけど。
●京都ではクレー展をやっているし、大阪のコム・デ・ギャルソンsixの中平卓馬展は東京の展示よりいいという話も聞いた(BLDギャラリーの展示は見られなかったけど)。それからすこし遠くなるけど、尾道市美術館で香月泰男の「おもちゃ」を中心とした展覧会をやっている(以前、東京駅のステーションギャラリーで観たけど、香月泰男の「おもちゃ」はすごくいいのだ)。うーん、どうしようかなあ、と。
ただ、今出ると、スケジュールの関係で三、四日で帰ってこなくちゃいけなくて忙しないので(こんな風に書くとなんか「忙しい人」みたいだけど、ぼくは引き籠らないと本も読めないし原稿も書けないというだけ)、四月の半ば過ぎくらいに出て、すこしゆっくりした方がいいかも。とはいえ、ゆっくり出来る金がどこにあるのかという問題はあるけど。