●『甦る相米慎二』(木村健哉・中村秀之・藤井仁子 編)を今頃になって読んでいる。
ぼくにとって相米慎二は、中学一年の時に『翔んだカップル』に出会って以来、十代を通じてずっと熱狂し、リアルタイムにその都度大きな衝撃を受け続けた作家で、だからこそ後期の作品に対する失望も大きく、その作品に対してなかなか冷静な距離をとれない。だから、気軽に観直したりもできないのだけど、でもまあ、そろそろ観直してみてもいいかなあという気もする。
相米といえば、延々と繰り返されるリハーサルというイメージで、カメラがまわらない日も珍しくない、と。実際この本でも相米組の人たちは、リハーサルを繰り返すことで、その俳優自身にも、相米にさえも、予測できないような何かが出現するのを待っているのだ、ということを言っている。「そこまでは分かった、で、その先は…」というのを追究するが、相米の演出の基本なのだということを皆が口にする。しつこく繰り返されるリハーサルに関する伝説もいろいろある。しかし、相米と親交が深く、『セーラー服と機関銃』では助監督もした黒沢清が、それをあっさりと否定している発言が載っているのが面白い。黒沢清にとってそれは反面教師になった、と。
《勉強になりましたね。連続一〇〇回テストやると人間どうなってゆくのか、というのを目の当たりにしたので。ほんとひどいことになって。うんざりして当然ですよね。奇跡的に一〇一回目ぐらいになかなかいいのが来る可能性はたしかにある。でも、三回目のほうが絶対良かったとも思う。三回目が良いか一〇一回目が良いかは、微妙なところで。》
本質的な作家というのはそれぞれ独自のスタイルを持ち、そしてそれは容易には他人と相容れないのだなあ、と。ぼくは映画の撮影現場というのは分からないのだけど、延々と繰り返されるリハーサルは、純粋に演技のためということだけでなく、映画の撮影という特別な時空をつくるための一つの技法でもあったのかなあという気もする。相米組の誰かも、「リハーサルを何度もやるので、スタッフ全員が芝居をすごくよく見るようになる」ということを言っていた。延々とつづくリハーサルを見て、スタッフそれぞれがいろんなことを考える時間もできるのではないか。現場の中心になる磁場みたいなものを、繰り返されるリハーサルがつくっているという側面もあったのではないか。
さらに、相米の演出の基本はあくまで芝居にあって、リハーサルを繰り返して芝居がかたまったところで、照明がそれにどのような光を当て、カメラがそれをどのように撮るのかを考える、そこはそれぞれのスタッフにまかせる、相米は、カメラマンに細かい指示を出すことがほとんどない、と相米組の人たちや照明マン、カメラマンは言う。これに関しても、黒沢清はまったく別の意見をもっている。
《横移動がしたいんですよ。どんどん横にカメラを動かしたい。人が動くから横移動するんじゃなくて、横移動させたいから人を動かしている。現場で見ていても明らかにそういう演出でした。人が走ったり歩いたり、ぞろぞろぞろぞろとなるわけですよね。》
カメラマンに直接指示はださないけど、芝居をつくることで実質的には指示をしているのと同じなのだ、と。プロデューサーの伊地智啓は、相米は、自分の中に既に答えがあるのに、それを自分で言わないで人に言わせようとするズルい奴だった、と言ってもいる。そういう、監督の人柄まで含めて現場がかたちづくられ、映画が出来ていったのだろう。
《小泉さんも浅野忠信さんもかならず相米さんの話題しますよね。それやめて、っていうんだけど。それだけ印象に残ってるんですよ、相米さんが。人徳ですよ。これだけ大それたことをやろうとして、それを実現した、というだけですごい。才能はもちろんあったわけですけど、人徳によってそれが出来たんでしょうね。》