2021-04-10

●U-NEXTのラインナップに入ったので『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(黒沢清)を久々に観た。今観たら古びていて面白くなかったらどうしようと怖々観たのだけど、とても良かった。ぼくは基本的にこういうのが好きなのだということを改めて確認した。

リアルタイムで観た時はまだ若かったので(85年は高校生だった)あまりリアルに感じていなかったが、ある程度歳をとって改めて驚くべきことだと思うのは、初期の黒沢清の徹底した空気の読まなさだ。時代の空気とか、業界のなかでの自分の立ち位置とか、どの程度の逸脱ややんちゃなら商業映画として許容されるのかなど、一切考えていないようにみえて、ただ、自分がやるべきだと思ったことだけをやっている感じ。おそらくそれはすごく難しいことだ。やっていることすべてがすばらしいとは言えないとしても、一切の忖度なしにやり切っているということの強さが、この映画を今観てもなお面白いものにしているのではないか。黒沢清は自主映画出身の監督と言えると思うが、だとしても、長谷川和彦相米慎二の映画に助監督としてついていて、商業映画の現場を充分に知っているはずなのに、自分が商業映画を撮るとなると、そんなこと知りもしないかのように、平気でこんな映画をつくってしまう。あえて、挑発的にやっているということでさえなく、自分がやるなら当然こうやるしかないだろうという、ある意味で天然な感じでやっていたのではないか。

(もちろん、黒沢清は当時から既に一部の人々の間ではカリスマであり、蓮實重彦四方田犬彦伊丹十三など、少数だが「偉い人」たちから支持されているということはあっただろうが。)

(とはいえ、黒沢清の商業映画の最初の二本の空気の読まなさからくる「呪われっぷり」はすごい。最初の二本はピンク映画として製作された。当時のピンク映画は、エロ要素さえあればだいたい何をやっても許容されるという環境だったと思うのだが、そのような世界でさえ、一本目の『神田川淫乱戦争』は公開はされたが「黒沢に二本目はない」と言われたらしい---うろ憶えだが確か『ピンクリボン』でそう発言していたはず。二本目は、伊丹十三が主演する---当時の伊丹は黒沢の才能を高く買っていた---ということでにっかつロマンポルノの作品として企画が通ったが、完成前のラッシュの段階でにっかつ側が上映しないと判断してそのまま製作中断でお蔵入りになる。そのフィルムをディレクターズカンパニーが買い取って、追加撮影をして一般映画として編集したのが『ドレミファ娘の血は騒ぐ』だ。)

今回観直して、まずオープニングのカット割りの鮮やかさに驚いた。そしてこの映画の「若さ」を強く感じた。伊丹十三を除いて、出演者もスタッフも皆若いのだという感じがすごい。いわゆる従来通りの「プロ」を排除して「若いオレたち」がつくるんだ感に溢れている。だけど、この映画で最も印象的なのはやはりラストシーンだと思う。皆でピクニックに出かけた後に唐突に海のシーンに繋がり、軽快な音楽と共に楽観的な感じで終わるのかも思いきや(おそらく、にっかつ版ではそこで終わっていたと思われる)、あからさまな『ワン・プラス・ワン』の引用につづいて、登場人物たちが謎の戦場のような場にいきなり置かれる。半ば枯れた雑草の生い茂るだだっ広くて平坦な場所に、荒れた感じの乾いた銃声が続くなかを、登場人物たちが身をか屈めながらひたすら移動している様が、長回しのカメラによって捉えられる。

この場面の殺伐とした感じ。暴力的なのだが、もはや暴力を暴力として生々しく感じられなくなるくらいに(世界から半ば離脱したように)非人間化した視線から捉えられたように暴力。恐怖や痛みや快楽を惹起させない暴力性で、ひたすら荒涼として殺伐としてザラザラ粗いという感触。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』ではこの感触が最後に付け足しのようにしてあらわれるのだが、ぼくにとって作家としての黒沢清の固有性は、まずこのひたすら荒涼として殺伐として粗い感触だったのだ、ということを今回観直すことで思い出した。この感触は必ずしも作品の構築的に必要な要素としてあるのではなく、しばしばいきなり突出するようにあらわれる。

この感触はこれ以前の作品(たとえば8ミリ作品である『『School Days』』や『しがらみ学園』)からずっとあり、これ以降もあって、90年代終盤の「復讐シリーズ」や『蛇の道』、『蜘蛛の瞳』では特に強く前面に出てきていて、『アカルイミライ』くらいまでは濃厚にある。ただ、『ドッペルゲンガー』以降、この感じは少しずつ薄まって、最近の作品からはあまりみられないように思う。