●若い時は、今ある世界、その権力関係や文脈のようなものが、固定されてずっとつづくように思われるものかも知れない。ぼく自身も、バブルでポストモダンな時代が、少なくとも自分が生きている間くらいはつづくものだと思っていた。皆、そこそこお金はあって、深刻な問題はあまりないのだが、すべての新しいものは出尽くしてしまって、あらゆることがらが退屈な反復でしかないような、閉塞的な「歴史の終わり」以降の世界が、そのままありつづけるのではないか、と。しかし、そんなものはまさに泡のように消えてしまったのだった。それはおおげさにいってみれば、軍国少年が体験した敗戦くらいに大きな出来事で、つまり皆が共有していると思っているような文脈など、泡の上に築かれたものに過ぎないと思い知らさせたのだ。
●文脈抜きに何かを判断し、文脈抜きに何かをつくること。このことの重要性は、多かれ少なかれ、自らが当たり前のようにして立っていた地盤が崩れるという経験をした者なら誰でもが、その必要性を感じていることなのではないだろうか。勿論、あらゆるものが相対的でしかないということを叩き込まれたポストモダン育ちにとって、簡単に普遍や神を信仰することなど出来ない。むしろ、個別的なもの、ローカルなものの内在的な自律の強さによって、文脈やフレームを超え得ると考えるのが、自然な筋道となる。当然、どんなものでも文脈に影響を受け、支配されている。しかし、それ自身としての内在的、自律的な強度があればある程、その文脈を共有しない者に対しても、何かしらの効果を与え得る。そのことは「古典」を通じて知ることが出来る。(フレーズのもつ潜在的な力が、フレームによる束縛=文脈化よりも強くなる、というのは、そういうことだ。)
●文脈を理解すること、それに精通することは、その場を支配している権力関係の細かいニュアンスや、そこで作動している欲望のあり方を触知するために欠かせないことではあろう。いわゆる「空気を読む」能力とは、まさに文脈=フレームのありようを察知する能力だと言えるだろう。空気を読む術に長けた人ほど、その場を支配する文脈(権力関係)に強く束縛される。しかし、そうであるからこそ、フレームのもつ強い拘束力を意識することも出来る。「野蛮」や「愚鈍」を賞賛するということは、つまり空気を読まない「天然」が文脈(フレーム)に風穴をあける様を、文脈に捕われている人の側から見ておもしろがっているに過ぎない。愚鈍とは、つねに聡明であることから見られた愚鈍であろう。そうではなく、つまり聡明であることとの関係によって愚鈍であることではなく、愚鈍であることそのものの内在的な組成そのもの、その強度そのものが問題であるはずなのだ。たんに、ある愚鈍があり、また別の愚鈍があるだけなのだ。
●空間が先にあって、そのなかに作品が配置されるのではダメなのだ。作品があることによって、結果としてある空間がたちあがるのでなければ。あるいは、フレームが先にあって、そのなかに絵の具が置かれるのではダメで、絵の具が置かれることによって、結果としてフレームがたちあがるのでなければ。
●相米慎二の映画は、OKカットをただ繋いだだけの、最初の段階が一番面白くて、編集がすすむにつれてつまらなくなるという話は、伝説のようにして伝えられている。OKカットを繋いだだけの状態を観ることが出来たのはごく一部の関係者だけで、ことの真偽を検証することは出来ず、だからこそ伝説となるのだ。その最初の段階では上映時間が四時間とか五時間におよぶと言われ、劇場での公開を前提とした商業映画というフレームのなかでつくられる相米慎二の映画ではそのような上映時間は許されず、仕方なく二時間前後にまで縮められたダイジェスト版のようなものを、我々は「作品」として観せられるというわけだ。このような話は相米慎二という映画作家の凄さやとんでもなさを神格化して祭り上げるエピソードとしてしばしば利用される。だからこそ、このようなやり方を理不尽だとして反発する者(例えば黒沢清)もいるだろう。だって、そんなに撮ってもカットしなくちゃならないのははじめから分っているだろう、と。しかし、この話を「神格化」とは別の視点から考えることも出来る。
ひとつのシーンは、二時間という上映時間の枠のなかの、ある一定の時間を構成するためにあるのではなく、そのシーンそのものとしてある。結果として、最終的には二時間の枠に納めなくてはならないとしても、少なくとも、それが「つくられる」時には、そのように(そのシーンそのものの内在的な必然性に従って)つくられなければならない。そのシーンは、あくまでそのシーンの都合によってつくられるのであって、二時間の完成された状態の想定が先にあって、そこから逆算してつくられるのではない、ということ。そのようにつくられているからこそ、結果として、作品としては破綻だらけの、ダイジェスト版みたいな相米の初期作品が、それでもなお、強い力をもつのだと思う。
●「映画芸術」の、相米慎二追悼の号をパラパラみていたら、照明の熊谷秀夫が、相米の映画にはメインポジションがない、という話をしていた。通常のシーンでは、どちらか一方の方向がメインとしてあり、その逆が切り返しの方向で、照明はそれに合わせて光を設計するのだが、相米の映画は、俳優に演技をつけている段階では、具体的なカメラの位置だけでなく、どちら側から撮るのかも決まっていないのだ、と。同じ長回しでも、例えば溝口健二の場合は、カメラが芝居の「裏側」にまでまわることは決してないのだが、相米の場合は裏も表も関係がなく、どの方向からもありなのだ、と。(あるいは、ホウ・シェオシェンにはあきらかにメインポジションが強くあって、切り返しさえほとんどない。)
このこともフレームを前提としないことと関係があるだろう。つまりフレームとはたんに構図の切り方ということではなく(あるいは、「作品」の内部と外部の仕切りということではなく)、芝居を決める前にそれが「撮られる方向」が決まってしまうと、無意識のうちに「そちら側」に向けて芝居を組み立てててしまう、というような(結果から逆算するような)ある「力」の作用のようなもののことなのだ。結果から逆算されるやり方によって、人は「想定される結果(を導きだす思考の枠組み)」に捉えられてしまうのだ。
●作品をつくるという作業をしている段階では、特定の方向性や参照粋に捕われず、あるいは最終的な結果のイメージを持たずに、なるたけ多方向へと注意を拡散させるように進める作業のあり方は、やり方や結果としての「形」はまったく異なるとはいえ、アルノー・デプレシャンにも近いように思える。