『オブラディ・オブラダ』(佐藤弘)

●『オブラディ・オブラダ』(佐藤弘)。50ページくらいまで読んで止まってしまっていたのを、再び改めて読み直す。今度は最後まで滞ることなく進んだ。 18日の日記にも書いたけど、フレーズが上滑りしてしまうようなところが随所にあって、それが気にはなった。特に、主人公の内省が思弁的になる時に、そうなる傾向があるように思う。思考の内容がないのに、ただ、だらだら書かれる文章のリズムに引きずられて、言葉が流れ、ひねられ、もてあそばれる、といった感じ。しかし、全体としては、ぼくはこの作家がやはり好きなのだ、と思えた。この小説は高校生が主人公の、いわば青春小説なのだけど、二十代の作者にしか書けないような青春小説なのだと思う。ぼく自身も、二十代の終わり頃に、十代の頃の身体的な感覚が残っているうちに、その「身体的な気分」みたいなものを、それがまだ僅かに自分の身体に残っているうちに何とか形にしておくことは出来ないかと思って(つまりそれが消えつつあることを自覚して)、何編か小説を書く事を試みたことがある。ぼくの場合それはうまくはいかなかったのだけど。
この小説には「懐かしさ」という感情がよく出て来る。この「懐かしさ」は、年齢を重ねてから過去を思い出して感じるものではなくて、今、ここにある場面を、まさに今、生きつつ、同時にそれを「懐かしい」と感じている、ということだ。十代の頃は、ちょっと前のことがやたらと「懐かしく」感じるということがあった。例えば、高校に入ってすぐの頃、ほんの二、三ヶ月前の中学時代がやたらと「懐かしい」とか。この「懐かしさ」という感情にはまったく実体がなく、自分でそれを感じつつも訝しく思っていて、だから実際に「なつかしー」とか言ってさわいで盛り上がっている人たちに嫌悪や軽蔑を感じていたりもした。しかし、直前でしかない過去をやたらと「貴重なもの」と思いたがるだけでなく、例えば、放課後、下駄箱のあたりとかで目的もなくだらだらと友人とだべっている時や、一人で川沿いの道を家に向かって歩いている時など、それをしているその時に、同時にその場面を「懐かしい」に近いような感情で感じていたということを、この小説を読んで思い出した。この「懐かしさ」が、年齢を重ねた後で過去を振り返った時のものではなく、その場にいながら、今いるその場面に対して感じている「懐かしさ」だという風になっているのは、この作家がまだ二十代半ばであり、十代の頃の感触がまだその身体に残っているからではないだろうか。
しかし、この小説で、そのような「懐かしい」という感情を直接的に書こうとしているところは、それほどは上手くいっていないようにも思う。この作家の最も魅力的な部分は、だらだらと心地よく流れる地の文であるよりも、登場人物たちが交わす会話にあるように思われる。この小説で、主人公と陽子ちゃんとフルヤくんとの三人の関係が描かれる部分に比べて、主人公の高校生活が描かれる部分はやや低調であるようにも思われる。それは、三人の関係がちょっと「妙な」ものであり、つまり小説になりやすい題材なのに比べ、高校生活は、これといって変わったところのない、特に事件が起こるでもない時間として描かれているから、それだけで小説にするのが難しということだろう。高校生活を描くパートの方に、より「上滑り」しているところが多いように思われるのも、特にこれといって変わったところのない普通の時間を、そのままだらだら書いて小説として成立させるのがいかに難しいか、ということを表してもいるのだと思う。しかし、特に何が語られるでもない会話を、特にこれといって特徴があるというわけではない高校の友人たちと語る場面がとても面白く、魅力的に描かれているから、この、特に何があるわけではない高校生活のパートが、なんとか成立しているのだと思う。
この小説の基本的な構造は、児童文学に近いものだと思う。つまり、子供たちの集団があり、その子供たち(ないしは一人の子供)が、一風変わった大人に出会い、その「変な大人」との交流によって様々な事を学び、それによって自身の現状を相対化する視点を獲得し、悩みや孤独を解決したりもする。そして、その「一風変わった大人」もまた、その人独自の問題を抱えていることをかいま見たりもする、というようなパターンのお話だ。しかしこの小説では、高校生である主人公と、大学生であるフルヤくんや陽子ちゃんとの距離は、児童文学における子供と「変な大人」ほどは隔たっていない。この微妙な距離感のさじ加減こそが、この小説のリアリティとなっているように思う。フルヤくんの独自のキャラクターとか、フルヤくんと陽子ちゃんとの関係とかも、そんなきれいごとありかよ、みたいな嘘っぽい感じになりかねないのだけど、フルヤくんが、謎の年上の女性とつきあっていて、その関係を上手く処理し切れていないところとか、あるいは、フルヤくんは実は陽子ちゃんに惹かれていながらも、たんに踏み出せないだけなんじゃないかと臭わせるところもあったりして、たんに妙な関係、妙なキャラクターというところに落とし込んでいないところがいいと思う。
この小説の登場人物は皆学生でり、にも関わらず、親などいないかのように、つまりそれぞれの「家庭の事情」をまったく臭わせない感じで描かれている。それによって、この小説の人物は皆、経済的な問題から切り離されて存在しているかのようだ。(例えば、「フルヤくん」の実家は絶対に貧乏ではないはず。)この感じがまた、この小説の児童文学的な感触を生んでいるのかもしれない。それが悪いということではない。むしろ、現在では経済的な問題を主題化すること方が安易だとさえ言えるかもしれない。しかし、そこにまったく触れないというのも、難しいとは思う。(高校の友人たちでファミレスに行くシーンで、ちらっとそこに触れてはいるけど。)