●なんとなく、2ちゃんねるの「古谷スレッド」をみていたら、一人だけやたらと鋭いことを書いている人がいて動揺した。このスレッドが既に終了してしまっているのと、2ちゃんねるの書き込みで鋭いと思ったのがはじめてだったので、メモとして以下に引用させていただく。あと、念のために書くと、ぼくは2ちゃんねるをたまにみることはあっても、書き込んだことは一度もないし、今後もないと思う(「古谷スレ」に限らず)。



《907 :石屋:2008/10/08(水) 01:47:48


今は、映画や小説や絵といったイメージを彷徨するのでなく、碇を降ろすときだと思う。
散歩もフルヤさんにはイメージになってしまっている。


これだけは、上にあげたようなイメージを全部捨てでも譲れないというのが、ここでの碇。
猫でも、恋人でも、妻でも、病気でも、宗教体験?、、なんでもいいのだけれど、語れないものを持たないと、、、
表象のレベルでなく、体感のレベルで。イメージを語るのはその後だよ。
メディアをつまずきの石にしてはダメだよ〜


でないと、カネの問題でなく、無意識からの汲み上げがどんどん少なくなってしまう。
表現者としてヤバイ、、


が、意識して行えることではないので、言ってもせんないか〜
(吐息)》



例えば、昨日触れた磯崎さんの小説「世紀の発見」がリアルなのは、「記憶について書いている」のではなくて「(作品の外に存在する)記憶によって書かされている」、あるいは、「家族について書いている」のではなくて「(作品の外に存在する)家族によって書かされている」からで、これはおそらく作品にとって最も重要な何かで、石屋さんが「碇」と言っていてるのは多分そのことだろうと思う。そして確かにそれは、決して「自分で意識して得ることが出来る」ようなものではない。子供や母の存在、あるいはAの記憶の「語れなさ」こそが、あの小説を駆動させていると思う(その「語れなさ」を言語のレベルでだけ考えると、表象不可能性と象徴体系の亀裂、そして自己言及性-メタレベルの発動みたいな話にすぐなって行き止まりになってしまうけど、そうではなく、体感レベルと言ってしまうと簡単過ぎるかもしれないが、フロイト-ラカン的な意味での部分対象のようなものとして、その語れない何かは即物的に「ある」のだと思う)。その語れない部分は決して作品には書き込まれないし、だから読者はそれを直接的には読み取ることが出来ない。でもそれは、作品の震えや歪みや破れのなかに確かに刻まれているはずで、その感触によって、読者にも「それがある」ことを感知することは出来るはずで、リアリティとは(もしかしたら勘違いであるかもしれないが)「それ」があることが感知出来たと思えたということだ。
ただ、一つだけ反論というか、弁解するとすれば、ぼくにとって「散歩」は決してイメージではないと思う。まあ、それを安易にイメージとして語り過ぎる傾向がある、というのは事実かもしれないけど。自分でも、なんで毎日のようにこんなに歩いているのかよく分からないくらい歩いている。しばしば、のんびりとした散歩の範疇を超えて、ちょっとおかしいんじゃないかと思うくらいに、取り憑かれたように歩くことがある(歩くうちに足の裏に水ぶくれが出来、その皮膚が破れても、まだ普通に歩いている、というのもまた、安易なイメージ化かもしれないけど)。でも、これが「碇」というほどに強い何かに成り得ているのかは、自分(意識)では分からないけど。
(もう一つ付け加えるとすると、「美術手帖」の8月号で、岡崎乾二郎が、よい作品は諸力の均衡によって「無重力状態」がつくられていると書いていて、それはまったくその通りだと思うのだが、何故、無重力状態が要請されるかと言えば、そこにもともと強く「重力」が作動している場があるからで、この重力を「外傷」と言ってしまうとあまりに簡単過ぎるので「現実界との接点」とか言った方が良いのかもしれないのだが、それはともかく、つまり強い重力によって要請される無重力状態というのが「作品」というもので、石屋さんのいう「碇」とは、まさにこの「重力」のことではないだろうか。)