●ちょっと読みたいところがあって、ラカンの『精神分析の四基本概念』を探したのだが、何故かみつからない。ラカンセミネールは、いつも分かり易いところにまとめて置いてあり、それ以外の本はちゃんとそこにあるのに『四基本概念』だけがみつからない。ありそうなところをいろいろひっくり返して探すのだが、みつからない。
読みたかったのは、フロイトの『夢判断』の七章に書かれたあの有名な夢(死んだ息子の夢)について、ラカンフロイトの解釈をさらに押し進め、父が目覚めた理由を「現実の火事」にではなく、夢のなかで出会った(現実のなかでは抑圧されていた)息子との間にあった「何か」を避けるため、とした部分。ここでラカンは、フロイトの「夢は抑圧された願望の充足である」という定義をはみ出し、人が夢でこそ「現実」と出会い、その「現実」から逃れるためにこそ、現実(目覚め)に逃避してゆく、という過程を示している(はず)。以下に書くことは、改めて参照し直していないので不正確なもの。
通夜の晩、父親が死んだ息子の遺体の番をしているうちに眠ってしまう。夢のなかに息子が出て来て、「お父さん、ぼくが火傷するのがわからないの」と父を責める。目覚めると、倒れた蝋燭の火が棺に燃え移ろうとしていた。フロイトの解釈では、父は眠りと目覚めのあわいのなかで、火が燃え移ろうとしていることを感じていたのだが、彼は疲労しており、眠りを少しでも持続させたいという願いがあり、その現実の知覚が夢へと変形された、ということになる。対してラカンは、夢が睡眠を持続させるためのものならば、父親が「何故目覚めたのか」が説明されない、夢のなかに居続ければ、息子とその間は一緒にいられるのに。だからそこに新たな解釈を付け加える。父は、息子との関係において、何かしら(抑圧された)後ろめたい出来事があり、夢のなかの息子の言葉は、父にそれを暗示し、それを責めるもののように感じられ、それを思い出すことを避けるために、父は現実-目覚めへと逃避してゆく。夢こそが、リアルに父と息子の「出会い損ない」に触れているのだ、と。
初期のフロイトでは、人はまず最初に幻想のなかに生きている。フロイトによれば、人が得る快感は、それが現実に由来するものでも、幻想に由来するものでも、その質にはまったく違いがないとされている(これはすごく重要なことだ)。だから赤ん坊は、自分自身の幻想のまどろみ(快感原則)のなかに生きており、それが一次過程と呼ばれる。そしてそれが徐々に「現実原則」を受け入れる二次過程へと発達してゆく。しかしラカンに従うならば、その時人は何故、現実へと「目覚めて」ゆくのかが説明されない。幻想によって現実と同等の快感を得られるのならば、ずっと幻想のなかに生きていてもいいのではないか。そして、上記の息子の夢を見る父についてのラカンの解釈に従うならば、人はむしろ、幻想のなかでこそより生々しい「現実」に触れてしまい、そこから(我々が普通そうだと信じている、たんなる妥当性としての)現実へと逃げて行く、ということになる。悪夢こそが人を現実へと脱出させる。つまり、妥当性としての現実へと目覚めることこそが実は「まどろみ」であり、幻想のなかでこそよりリアルな「現実」に触れる(意思-意識とは関係なく、自動的-受動的に触れさせられる)。まどろみたくないのであれば、眠りつづけなければならない。
まあ、これは少々極端な言い方だが、決して、現実のなかにだけ「現実」があるわけではないことを示してはいるだろう。フロイトは、本来、快感原則が支配するはずの幻想のなかに「現実」を呼び込んでしまう働きのことを「死の欲動」と呼び、それは反復強迫によってもたらされるとする。そこで反復されるのは外傷という「現実」であり、ラカンはそれを「現実界」と名付けるだろう。勿論、外傷-現実(界)そのものは、幻想-夢の外にあるのだが(幻想-夢は決して「現実」そのものではないのだが)、かといって「現実」は、決して(我々が普段妥当だと思っている)現実のなにかあるのでもない。ただ、夢-幻想の自動運動は、他者と共同の妥当性によって形成される現実によって覆い隠された「現実」に、ふいに近付くことがあり得る(勿論、他者との共同の妥当性が崩れることで、現実もまた、あっけなく「現実」に触れてしまうのだが)。
作品もまた、夢や失策、言い間違いと同様に「無意識の形成物」であり、それは現実に持ち出された、現実的なマテリアルによって形成された「夢」であるとも言える。人が、夢を見ないで生きることが不可能であるということは、人が、ものを食べないで生きることが不可能だということと、同等の重さをもつはずだと思う(ここで夢とは、将来の希望とか願望のことではなく、たんに寝ている時に見る夢のことだ)。だから「作品」は、「食物」と同じくらいに、人にとって基本的に必要なものであるはずなのだ。