●「文藝」2008冬季号の「世紀の発見」(磯崎憲一郎)。一度最後まで読んで、もう一度つづけて最初から読み直した。磯崎さんが、今までの小説でやったきたことはこの小説でやり切ったと言ったのは、技法的なことではなく、むしろ内容的なものだったのかなあと思った。いままでの磯崎作品で最も読みやすく、しかし最も複雑であるようにも思えた。一見、素朴に作家自身に近いところで(実体験などを多く採用しつつ)書かれているようにもみえるのだが、その分さらに、以前の作品よりも油断がならない感じ。
真面目な顔をしていい加減なことを言い、いい加減なふりで真面目なことを言っていて、しかもさらに、真面目な顔で真面目なことを言ったり、いい加減そうにいい加減なことを言っていたりもしていて、そしてそれらが全てフラットに同じ強さで分け隔てなく並べられているので、それら話のどの部分を、どのような距離と態度とで聞き分けたらよいのか分からず、結局それらを全てフラットに同じ真剣さで受け取るしかなく、だからこそそこで、真面目な話からもいい加減な法螺話からも、同じくらいのリアルな切実さが響いて来る、とでもいうのか。
いや、そうではなく、この小説の構造のなかには、人間や時間や世界の深淵へと響くものが畳み込まれているかのようであり、しかし同じくらい、ここで書かれていることのすべてが胡散臭くて薄っぺらな書き割りのようであり、その両方が常に同時に同じ重さであって、深刻な態度で読もうとするとはぐらかされ、冗談や法螺話として軽く処理しようとすると胸元に差し込まれ、けっきょく、どちらともつかない不安定なところで読むことこそが最も真面目な読み方であることを知らされる、というべきなのか。ほとんど口から出任せのような言葉が、いつの間にか懐に深く食い込んでくるようなリアルで切実なイメージへと展開し、ぐっと差し込まれたと思って身構えると、きわめていい加減な言葉へと着地してはぐらかされる、とか。描かれているイメージの一つ一つはとても明解で分かり易いのだが、そのイメージに対してとるべきこちらの身構えが決定出来ないような、捻りというか、展開が、一文、一文に、最初から最後までほぼ同じくらいの精度で仕掛けられているので、読む側は始終、書かれている言葉に対する身構えを変化させなければならず、読みながらずっと、あたふたとせわしなく体を動かしているような感覚があり、そしてそのようなこちらの身構えの隙をつくかのように、ときおり非常に強く、リアルなイメージがぐぐっと差し込んでくる。
高校の体育で柔道の時、たまたま同じクラスの柔道部でも特に強い奴が友達で、そいつと組み手をする事が多かったのだが、いつも、いいように操られたあげく、最後には切れのあるきれいな技でスパッと投げらるのだが、それは何かとても気持ちのよい感覚で、その時に近いような感じがこの小説を読んでいる時にあった(キレの良い技で投げられるのは、一瞬重力がなくなって、やわらかくふわっと宙に浮くような快感で、受け身さえちゃんととっていれば全く痛くなかった)。