●U-NEXTに新しく追加されたので、『東京上空いらっしゃいませ』(相米慎二)を観た。よかった。これを観るのはいつ以来だろう。90年公開の映画で、80年代にイケイケだった相米慎二の転換点みたいになった作品。公開時に観た時は、好きだけど、これはこれでいいとは思うけど、でもこれは相米の映画なのか…、と複雑な気持ちになったことを憶えている。
上昇と下降(浮遊と落下)、仰角と俯瞰など、高さ(上下の落差)を意識した演出は、死の延期(一度高いところへ行って、戻ってきて、最後にまた上昇する)という物語上の主題を考えるとオーソドックスなものだと言えるし、張りはあるが一本調子である(おそらく意識的に演出として一本調子にしている)牧瀬里穂がそれでも単調にならないような様々な工夫もまたオーソドックスで、たとえば『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子や『雪の断章 情熱』の斉藤由貴の使い方のような「無茶している」感じはない。とにかく「無茶をする」ことで映画を成り立たせていた相米慎二から、無茶をしなくても映画を成立させられる上手な相米慎二への転換。
毬谷友子の部屋と中井貴一の部屋という上下関係が、真ん中に奇妙なロフトがついている中井貴一の部屋のなかにミニチュア的(フラクタル的)に反復されているという空間の設定だけでぼくは興奮するけど、この作品より前の相米慎二だったら、この上下の落差をもっとあからさまに強調する演出をしたと思う。でも、この映画で上下の落差は物語上の必要性から大きく逸脱することはないように抑制されて使われている。いかにも、東京で自律的に生活するシングルという感じの中井貴一の部屋に対して示される、川越で三世代同居する牧瀬里穂の実家の古い日本家屋の空間も、東京でキャンペーンガールという仕事をしている牧瀬里穂だが、中味は田舎の純朴な子供であることを示すという、物語上の要請を大きく逸脱するような造形はされない。だけど、オーソドックスだということは凡庸だということではなく、一つ一つの場面が、あからさまな無茶はしていないとはいえ、とても充実した作り込みがなされていて、ありきたりではない。ただそれでも、無茶をする相米に入れ込んでいた公開当時は、肩すかしをくったような感じを受けてしまったのだが。
●この映画の物語から、大島弓子の「秋日子かく語りき」をすぐに思い出す。「秋日子…」の場合は、事故死した中年女性が女子高生の姿になって一時的にこの世に戻ってくるが、「東京上空…」では、自分自身の姿で戻ってくる。でも、事故死した牧瀬里穂は、キャンペーンガールとして街中に貼り出されている広告(イメージ)の似姿として、この世に戻ってくる。だからここでも、わたしはわたしから微妙にずれている。とはいえこのずれは、この映画ではあまり大きな意味をもってはいないと思う(このずれは、むしろ生前の彼女が強く感じていたもので、死後はこのずれが解消されるというのがミソだ)。「秋日子…」での中年女性の生への執着の原因は主に家族への気がかりであったが、「東京上空…」では、自分はまだ充分に生ききっていないという、自分自身の生への執着だ。だから、「秋日子…」と「東京上空…」は、予期しなかった形での唐突な生の中断(死)と、死の保留による生の捉え直し、という点では共通しているが、「東京上空…」の方は、死への直面とその一時的保留(宙づり)による逆説的な「生の充実」という側面がより強く出る。物語の組成としては「東京上空…」の方が単純だろう。(中井貴一以外で)自分の死を知っている人に出会ってしまったら、生の保留の時間はそこで終わってしまうというゲームのルールが、彼女の生を死の前の文脈から切り離し、ある意味で純粋化させる。
この、純粋化されて生き直される死後の生の時間の充実により、生の感触を得て、それによって自らの死を受け入れられるようになるというのがこの物語であり、死後の生の充実の実質は、この映画自身の映画としての時空間の充実によって表現されることになる。また、この映画では牧瀬里穂の死は覆らないだろう(ハッピーエンドはないだろう)ということが当初から予想される。つまり、彼女が自分の死を受け入れるというラストに向かって、その納得がどのように形作られるのか、そしてその過程を観客として納得できるのか、ということが「この映画の経験」の主になるだろうということが当初から予想される。はじめからゴールがある程度みえているなかで、その途中が構成される。この映画の演出が、物語を効果的に語るという目的を大きく逸脱することがないということの意味は、この映画の描き出す運動がゴールへと向かう過程から大きく逸脱することがないということでもあるだろう。それはこの映画が、細部が突出する、あるいは、個々の場面のそれぞれ個別の運動が結果として一つの映画へと収斂する、というような作品ではなく、「死の受け入れ(納得)」というゴールへ向けて積み上げられるように構築される作品であるということだろう。たとえば、『ションベンライダー』はそういう映画ではないし、『台風クラブ』もそういう映画ではないだろう。これらの映画はゴール(目標)がなく、高まった運動がある地点でぷつっと途切れるようにして終わる。そういう意味で相米はここで大きく変わったのだと、改めて思った。