2021-12-31

アマゾンプライムに『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』(榎戸耕史)があるのを知って早速観た。1988年公開。まだ昭和だ。この映画は確か、公開時に観たのと、その後、90年代に入ってからVHSで何度か観直しているはず。とても良かったという記憶があるのだが、今回観て、思っていたのよりもさらに数倍すばらしかった。これは傑作じゃないか、と。

榎戸耕史の第一作目で、榎戸耕史というとどうしても相米慎二の助監督だった人というイメージが色濃くなってしまうのだが、あきらかに相米慎二とは異質の、新たな映画作家の誕生をはっきり示していると思う。

(相米みたいなことだけは絶対やらないという強い意志が感じられる。だが例外的に、夜の公園の場面では「相米の遺伝子は我にあり」みたいなことを見せつけているようにも感じた。)

相米慎二のようなワイルド感というか、ダイナミックな力動感はないのだが、ずっと端正で、場面の作り方とか、俳優の芝居の組み立て方とかは、相米よりもずっと丁寧で上手いように思った。相米の場合は、オブジェクトとしての身体の動きそのものの面白さを追求する感じ(オブジェクトとしての身体の動きにともなう空間の伸縮、みたいな感じ)だけど、この映画の場合、複数の身体による相互作用としての「場」の生成の方に重きが置かれているように思う。基本、俳優の芝居によって場面をつくっていく方向だと思うのだけど、あるセリフやある動きによって、場の空気がぐっと緊張するとか、逆にふわっと緩むとか、個々の俳優による人物の感情表現というより、人々や物や空間すべてによって生じる「場の空気」の成立と変化みたいなものが的確に捉えられ、形作られているように感じた。

(二人がはじめて性的関係をもつ緊迫した場面で、炊飯器の米が炊ける音によってしゅーっと緊張が解けるところとか、おー、すげー、と思った。)

(それと、相米に比べてセンスが圧倒的に新しい感じは---三十年以上経った今からみても---ある。)

しみじみ思うのは、88年の日本(映画)にはお金があったのだなあということ。おそらくすべてロケで撮られているだろうし、当時としてはかなり低予算の部類に入る映画だったのだろうが、それでも、今の日本映画に比べると贅沢な感じがあって、地味な低予算映画であっても、お金をかけるべきところはちゃんとかけているということからくる描写の厚みを感じる。

(渋谷の公園通りの横断歩道の真ん中で二人が立ち止まって、信号が変わって車がなだれ込み、そこから騒動になる場面があるが、あの場面は一体どうやって撮っているのだろうか。ゲリラ撮影であの場面を撮るのは不可能に近いと思われるのだが、車の流れをとめて、あんなに大勢のエキストラを使って撮ったのだろうか。それだと相当お金がかかるのではないか。相米組出身の人だから、すごく強引で無茶なやり方でゲリラ的に撮っているのかもしれないが。)

●榎戸耕史は、2017年に、桜美林大学の教師と学生がコラボした『やがて水に歸る』という映画を作っていて、これもとても面白いのだが、その直前に、横山秀夫原作のテレビドラマを何本かつくっている。どんな感じなのか、これをなんとか観られないものだろうか。

『やがて水に歸る』について。2018年3月21日の日記。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180321