相米慎二9・11を知らなかったし、永遠に知ることはないのだ、ということは、人の死について考える時にいつも思い浮かぶことだけど(自分が死んだ後の世界を考えるという意味でも)、でも、そんなこととは関係なく、相米の作品はありつづけている、ということの方が重要なことなのだとも思う(相米慎二は2001年9月9日に亡くなった)、。
●昨日、今日と、駅前のマックで原稿を書いていた。マックは、静かだということはあまりないのだが、昨日は特にうるさかった。何組かの高校生のグループの騒ぐ声が、狭い空間のなかをぐるぐるまわり、ぐわんぐわん響き、地獄のような騒がしさだった。出来れば、もう少し静かな喫茶店に移動したかったのだが、コーヒー代がないのだった(晩ご飯をカップ麺とかにすればいいのだが、静かさよりもご飯をちゃんと食べることの方を選んだ)。書きものへの集中と、耳から入ってくる騒音とが、ぼくのなかで完全に乖離してしまって、今、ここに、この身体を持って、いる、という感覚が、ほとんど消えて、自分が同時に二つある、というような感じになった。