●ここ二、三日で近所の田んぼが水を張りはじめた。
●昨日の日記で書いた保坂さんの「こことよそ」について、ふと、「谷崎潤一郎全集の月報にエッセイを書いた」ということがフェイクであるという可能性もあるのではないかと思い、「谷崎潤一郎全集 月報 保坂」で検索してみたら、既に保坂さんのホームページにアップされていて、エッセイは実在したと納得した。
http://www.k-hosaka.com/nonbook/tanizaki.html
●「こことよそ」に出てくる映画『九月の冗談クラブバンド』は82年の映画で、当時ぼくは中学生で、ATGの映画は地元まではまわってこないので観てはいない。でも、若い監督(25歳)がつくった映画ということと、撮影中に大きな事故があったということもあって、わりと話題になっていて、当時、テレビで長崎監督のインタビューや映画の一部を観た記憶がある。石井隆が描いたポスターがかっこよくて、印象に残っている。
●77年に大林宣彦(当時39歳)の『HOUSE ハウス』、78年に石井聰亙(当時21歳)の『高校大パニック』と大森一樹(当時26歳)の『オレンジロード急行』が、それぞれ東宝、日活、松竹でつくられて、メジャーな映画会社が、助監督経験のない(社員でもない)、商業映画の撮影現場を知らない若い自主映画作家を監督としていきなり起用する、という異例のことが起った(それ以前、監督は映画会社の演出部の社員で、社内で出世して監督になるのだった)。大林宣彦は、すぐに売れっ子となって映画を量産し、石井聰亙大森一樹も、80年にはそれぞれ『狂い咲きサンダーロード』と『ヒポクラテスたち』で監督としての高い評価を得る。自主映画系ではないけど、長谷川和彦が76年(当時30歳)に『青春の殺人者』を、79年に『太陽を盗んだ男』をつくり、80年には相米慎二(当時32歳)が『翔んだカップル』でデビューする(長谷川和彦相米慎二は、日活の社員ではなく非正規雇用の助監督だった)。黒沢清は自主映画系だけど、長谷川和彦の『太陽を盗んだ男』や相米慎二の『セーラー服と機関銃』(81年)で商業映画の助監督を経験し、その後、83年(当時28歳)に『神田川淫乱戦争』で商業映画デビューする。82年にはディレクターズカンパニーが結成されている。こういう感じで、七十年代終わりから八十年代はじめにかけて、日本映画に「若手がきてる」という勢いがすごくあった。
(これはあくまで、中学生から高校生だった当時のぼくには、外側からこう見えていたということで、まちがっているかもしれないのだけど。)
自主映画をつくっていた長崎俊一の商業デビュー作『九月の冗談クラブバンド』も、そういう勢いのなかにある映画だと、当時のぼくには感じられていた。
●あと、浅田彰(当時26歳)『構造と力』、中沢新一(当時33歳)『チベットモーツァルト』が出たのが83年。栗本慎一郎(当時40歳)『パンツをはいたサル』は81年。NHK糸井重里(当時34歳)の『YOU』が始まるのが82年(「TOKIO」作詞は79年、「ヘンタイよいこ新聞」は80年から)。村上春樹(当時33歳)『羊をめぐる冒険』が82年(デビュー作『風の歌を聴け』は79年)。YMOのシングル『テクノポリス』が出たのが79年(当時、細野晴臣32歳、高橋幸宏坂本龍一27歳)、アルバム『BGM』が81年。ビートたけし(当時33歳)、明石家さんま(当時25歳)、島田伸介(当時24歳)などが世に出た漫才ブームが起ったのが80年。タモリオールナイトニッポンがはじまったのは、ちょっと早くて76年(当時31歳)。ただ、タモリの地位を決定的にした「テレビファソラシド」と「今夜は最高」は79年と81年にはじまる(「笑っていいとも」「タモリ倶楽部」は82年から)。今の日本のカルチャーを牛耳っている人たちの多くがこの短い数年の間に出てきているという感じがある(細野晴臣ビートたけしが同じ年に生まれている!)。
「こことよそ」にも書かれているけど、二十代だったから明るかったということもあるとしても、この時代は、何か新しいことをしようとする若者に対して寛容にチャンスと権限を与えるような空気があったという意味でも明るい時代だったのだと思う。
(ぼくの実感だと、この明るい感じは70年代の終わりからせいぜい83、4年くらいまでて、80年代後半は完全にバブルだからまた違うように感じていた。)