●『夏の庭』がDMMで配信されているのを知って、観た。二十数年ぶり。相米慎二は好きな監督なので、相米作品は皆、複数回観ている。『ションベン・ライダー』など、3〜40回以上観ていると思う。でも、『夏の庭』だけは、公開時に映画館で観て、それっきり観ていなかった。今、改めて観ると、すごくいいと思ったのだけど、二十代の頃のぼくはこの映画を受け入れられなかった。こんなの相米の映画ではない、と。相米がこんなに軟弱な映画をつくるようになってしまったと、ガチでかなり落ち込んだくらいに受け入れられなかった。だからずっと避けていた。
相米作品には前期と後期があると言っていいと思う。『翔んだカップル』から『光る女』までが前期で、『東京上空いらっしゃいませ』から『風花』までが後期。『光る女』をどっちに入れるのかは、ちょっと微妙かもしれない。で、前期と後期とは確実に違う。おそらく、意識的に作品の作り方を変えていると思う。そして、十代のぼくは前期の相米にめちゃくちゃハマったので、後期の相米を受け入れるのはなかなか難しかった。『東京上空いらっしゃいませ』が、非常に洗練されたすばらしい映画だということは、当時のぼくにも分かったけど、しかし、これが相米の映画なのかというところで、なかなか受け入れられない感じはあった。でも、『東京上空…』と『お引越し』に関しては、その作品の力によって、三、四割は納得できないけど、六、七割は納得したという感じだった。作品の完成度という意味では圧倒的にすごいことは明らかだから。
でも、『夏の庭』に関しては、さすがにこれは違うだろうと思ってしまった。『夏の庭』に出てくる十一、二歳くらいの少年たちと、『ションベン・ライダー』に出てくる十四歳の少年少女たちとは、まったく相容れない別の世界に住んでいると感じてしまった。今、改めて観て、『夏の庭』では、基本的に演技の出来ない子供たちを「物語の世界」に息づかせるために、一貫して子供たちに、声を張った棒読み的なセリフ回しを要求している。なんというのか、そのたどたどしさによって、映画的身体のリアルさと物語的人物としての説得力とを、上手く重ね合わせることに成功していると思う。『お引越し』の田畑智子のような、圧倒的なパフォーマンスが出来るわけではない『夏の庭』の子供たちに対する演出として有効だと思う。これを、今は素直にさすがだと思うのだけど、二十代のぼくには、それこそが受け入れがたいことだった。『ションベン・ライダー』では、そんな半端な折衷案みたいなことは拒否していただろう、と。相米がここまで「物語」に奉仕する映画をつくるのか、と。これは転向じゃないかと。
実際、相米は転向したのだと思うし、それは正しかったのだとも、今は思う。実際、いつまでも『ションベン・ライダー』のようなものを狙って撮っていたら、作品はどんどんつまらなくなっていったと思う。しかし同時に、『ションベン・ライダー』に魅了されていた当時のぼくが、これを受け入れられなかったのも正しいと思う。『夏の庭』の折衷案はとても見事なものであるけど、『ションベン・ライダー』のような作品経験の強さはもたらさない。見事だ、上手い、感心する、味わい深い、と「すげーっ」とは、違う。
でも、決して「すげーっ」にまでいたらないからこそ「いい」、ということもあるのだとも思う。
(見事だ、上手い、が、研ぎ澄まされて、「すげーっ」の領域にまで達することはある。たとえば、遺作となった『風花』の冒頭の桜の場面とか。)