ジャック・ドワイヨン『恋する女』

●横浜の芸大馬車道校舎で批評家の大寺眞輔氏がやっているシネクラブに、ジャック・ドワイヨン『恋する女』(1987年)を観に行く。正直、目当ては映画というよりもゲストの風間志織の話を聞くこと(というか、風間志織を「見に行く」こと)だったのだが、映画が、大変に素晴らしく面白かった。最近は、こういう映画を観ることがほとんどないけど、ぼくは十代の頃に、「こういう」映画を観ることによって、映画を好きになったのだった。「こういう」というのはどういうことなのか説明が難しいのだが、例えばそれは、同じドワイヨンの『ラ・ピラート』であり、相米慎二の『ションベン・ライダー』であり、あるいは八十年代のゴダール(特に『パッション』や『勝手に逃げろ/人生』)であり、また、風間志織の『0×0(ゼロカケルコトノゼロ)』であり、香川まさひとの『バスクリンナイト』であった。(映画に限らずにもっと言えばそれは、蛭子能収の『私の彼は意味がない』だったり、糸井重里湯村輝彦の『情熱のペンギンごはん』だったり、蓮實重彦の『〈私小説〉を読む』だったり、タモリの「思想のない音楽会」だったりもするのだが。)無理矢理に言葉にするとすればそれは「いきなり」な感じのことで、段取りも説明も文脈も抜きにして、何ものかが唐突にぬっと立ち上がってきて、その、周囲から切り離されて唐突に立ち上がった異様な何ものかの力のみによって、その積み重ねや不意の連結や変化のみによって成り立っているような映画と言えばよいのか。題材にも物語にも技法にも還元されない「何ものか」がいきなり目の前に現れて、これは一体なにごとかと戸惑っているうちに、こちらの感覚をぎゅっと掴まれて、訳もわからないうちに引きずり回されて、訳がわからないままにその世界に魅了されていると言うのか。「その場」で成り立つ、アクションやパフォーマンスや運動が、それ自身の力によって説明的、物語的な因果関係を振り切るような作品の推進力になり吸引力になっている、と言えばよいのか。その(遊戯的な)自律性は、映画というものが、「そこにあるもの」が即物的に写ってしまうこと、「それがそこにあること」それだけによって直接的に何かを物語ってしまうこと、そのような即物性によってこそ成り立っていることとも関係するだろう。つまり、物や人(身体)が説明や段取り以前に(そしてフレームの外にある環境から切り離されて)「いきなり」そこにそのようにして在るということが映像によって直接示されること。彼女たちが、何故そこにいて、そのように動いているのか、の理由や説明に意味があるのではなく、彼女たちが(他ではない)「そこ」に居て、(他ではなく)「そのように」動いているということそものもが、実質を持ち、関係をかたちづくり、何かを語る。何故、最後に唐突に白馬が出て来るのか、というところに意味があるのではなくて、唐突に白馬が出て来るというその流れ(唐突さ)の有り様そのものに、そしてその白馬の、なんとも言えない不細工さそのものに、意味があるのだった。
しかし、「段取りも説明も文脈も」関係なくなにかが「いきなり」成り立つという点がことさら強調されるのは(そして観客がことさら「いきなり」であることに魅了されるのは)、八十年代的な作品の特徴とも言えて、つまり、文脈から切り離されたようにみえる作品も実は、八十年代的な時代の文脈に拘束されているということなのだった。(ことさらに「意味=抑圧を嫌うこと」や、「重力から解放されたところに幸福をみること」にも、別の「意味=重力=抑圧」が作用していることは認めざるを得ない。)実際『恋する女』という映画は、笑ってしまうくらいにモロに八十年代的な作品で、そのような意味でも「こういう」のは最近はあまりみられない。そしてことさら「いきなり」なものに惹かれる自分の感覚が、ある特定の世代的拘束のなかにいるのかも知れないという疑念もある。ぼくにとっては、『恋する女』は今観ても素晴らしく面白かっただけでなく、久々に映画を観て「いてもたってもいられない気持ち」になった程なのだけど、ぼくなとどまったく世代の異なる人が、何の説明も予備知識もなく(まさに「いきなり」)この映画を観たとしても、面白いと感じられるだけの「強さ」をこの映画がもっているのかどうかは?ぼくには何とも言えない。
(しかし、いかにも八十年代的な作品を、多少のテレはあるものの、あまり屈託なく(自分がそこから多大な影響を受けているということまで含めて)受け入れられるようになったのはここ最近のことだ。九十年代の後半くらいの時期は、八十年代的なものは、どうしても否定的な感情抜きにはみることが出来なかったように思う。そのような意味で、八十年代は、ようやく普通に「過去」になったということだろうか。)
●風間氏の話で気になったのは、この映画のフィルムチェックのための試写の時、一緒に女優の木村文が観ていて、上映後、木村氏が、「男の人はこういう映画観て面白いんですかねえ」みたいな、否定的なことを言っていた、ということだった。風間氏は、自分は女だけど、これは面白いと思う、と言っていたのだけど、しかしこれは、男/女という対立というよりも、監督(演出家)/俳優(被写体)という対立のようにも思えた。多くの観客は、この映画を普通に「監督」のような立場から観るように思うのだけど、これが「撮られる側」に感情移入していたらどうだろうかと思った。ドワイヨンの映画は、俳優からみたら、ちょっと不快な感じがあるのかもしれない。それはたんに、俳優のナルシシズムを逆なでする撮り方をするとか、そういう次元ではなくて(むしろ俳優をやるような人は、自らのナルシシズムを踏みにじられるようなことに快感を覚えるのではないだろうか)、俳優に対して根本的に凄く残酷な感じがする。基本的に、演出家(=観客)と被写体は相容れないものなのだということが、この映画ではとても残酷に露呈されてしまっているというか。(この映画に限らず、映画を「幸福なもの」としてとらえる人、ぼくもそういう傾向が強いわけだけど、そのような人は、観る人と観られる人との間にある、解消され難い非対称性を棚上げにするようなところがあるのかもしれない。)風間氏は、ドワイヨンは「人間が好き」なのではないかと言っていたが、確かにドワイヨンは俳優(というか女優)にしか興味がないと言っていいくらいだと思うけど、しかしそれは単純に「好き」と言えるようなものとはかなり違うように思える。まあ、これは、優れた映画作家はみんなそうなのだと思うけど。特にドワイヨンは、女優を「エロ」の目線で捉えないので、その残酷さは際立っているように感じる。
●リヴェットとドワイヨンとの違いは、リヴェットの場合は、登場人物の役割やゲームを進行させてゆく規則はあらかじめ決まっていて、その割合と安定した順列組み合わせ的な構図のなかで、世界の様々な表情やノイズが拾われてゆくという感じなのだと思うけど(だから上映時間が長くなるし、その長い時間を観客は耐えられる)、ドワイヨンでは、ゲームを進行させる基盤となる規則がゲームの進行のなかで変化してしまって、その「基盤ごとズレていってしまう」感じがスリリングで面白いのだと思う。サッカーやってると思って観ていたらいつの間にかドッヂボールになっていた、みたいな。特のこの『恋する女』や『ラ・ピラート』ではそれが上手くいっているように思う。しかしそのためには一つ一つの場面での相当のテンションが必要で、その、基盤までを変化させてしまう動因として、実在する俳優の身体が求められている感じだ。(ドワイヨンのテンションで上映時間三時間とかだったら、とても観てられない。)