●いまおかしんじ『かえるのうた』をDVDで。『たまもの』と同様、最初に出て来る主役の女の子のキャラクターがなんとなく嫌で、この女の子の話をずっとみせられるのはキツいなあと思うのだけど、それでも結局最後まで観てしまうし、最後まで見れば、好感を持つとまではいかなくても、まあ、こういうのもありなんだよなあ、と納得して、受け入れてしまっている、という不思議な作品。正直、面白いのか面白くないのかよく分らない映画なのだけど、そういう意味で、この映画にはすごく説得力があるということなのだろうと思う。ただ、『たまもの』のボーリングの球男は素晴らしかったけど、この映画の「かえる」の使い方は、ちょっと安易に思えた。
ウェブ上のいまおか監督のインタビュー(http://www13.plala.or.jp/intro/Contents/Interview/interview007a.htm)で、この映画の話のもとには、故郷へ帰っていた監督の大学時代の先輩が自殺したという事件があって、先輩がどうして死んだのかについて考えているうちに、その先輩と自分が二人でだらだらしているという話を思いつき、しかしピンク映画の枠組みで男二人の話は無理があり、また、監督としても直接その先輩の話をやるにはまだ生々し過ぎるというのもあって、女の子二人の話にした、ということが語られていた。それを知ると、この映画の、こんなのが今時なんで成り立ってしまうのかというような、あまりに唐突で幸福なラストシーンも、その裏にシビアな現実が貼り付いていて、だからこそこの強引なパッピーエンドが、白々しく浮いてしまったりしないのだなあ、と思った。(監督は、「そんなことはあり得ないけど、十年後くらいに街をあるいていて先輩にばったり会うようなことがありそうな気がするんだよね」みたいなことを言っていて、その「感じ」があのラストシーンを支えているのだろう。あと、DVDに同時に収録されている短編『佐藤宏』がたいへんにすばらしい。)
『たまもの』を観た時も思ったのだけど、いまおか監督はピンク映画の監督としてそれなりにキャリアがあるのにも関わらず、「すれた」感じがなくて、良い意味で素人の撮る自主映画みたいな「映画を撮ることに対する新鮮な感じ」があるように思う。でもそれは、自分のなかにあるものはもう全て使いきってしまった、という状態で映画をつくっている、ということなのかも知れないとも思う。自分のなかにはもう何もストックが残っていないという状態になってはじめて、ある種の素朴さを獲得できるということなのかも知れない。
夕方、買い物に行く道の途中に、歩きながら無意識のうちに「空なんて知らないよ、ゲーロ」と口ずさんでしまっているのに気付いた。