●『ゴーストキス』(いまおかしんじ)をDVDで。これ、すごい。すごいと言った後、つづけて何と言ったらよいのかわからない。いまおか的緩さはこんなところにまで到達したのか、というくらいしか。「これ」で映画を成立させてしまうことができる監督は、いまおかしんじ以外いないのではないか。ここまで緩くなれば、緩さがそのまま密度であり、緩さそのものが強さとなる。いや、この感じを「緩さ」としか表現できないのがもどかしい。というか間違っている。観始めのころは、何故、よりにもよってこういう俳優たちを選ぶのか、と疑問に思うのだが、観終わる頃にはもう、この映画はこの人たちでしかあり得なかったのだという気持ちになる。だからこれは緩さではなくいまおかしんじ固有の密度であり、必然性なのだ。この映画を緩いというのならば、ブレッソンだって緩いということになる。
これはおそらく相当な低予算でつくられていると思われ、だからカメラはアパートの一部屋から(ラストシーン以外は)一歩も外に出ることはない。要するに、幽霊は部屋の外へは出られないという話で、幽霊は皆、おっさんまでもが女子高生の制服を着ている。普通、そんなのただの「出オチ」だろう、というくらいのことなのだが、それが素晴らしいのだ。制服姿のおっさんたちが、男に浮気された主人公とどんちゃん騒ぎをするという(普通に考えればつまらないコントのようなものとしか思えない)場面が、何故こんなにすばらしいのか。それを支えているのは、とりあえず「緩い」としか言いようのない独自の調子であり、普通に考えれば素人並み(もしかしたら以下?)としか思えない俳優たちの演技の(そして容姿の)、しかし「これ」しかないという質なのだ。それに加え、いまおかしんじの多くの作品に共通する、死への感覚もあるのだと思う。
(緩さ=鷹揚さは、死への強い否認、防衛として発動されるのだが、しかし逆に、その、ほとんど非現実的なまでに拡張された鷹揚さこそが、死の受け入れを準備し、促す過程ともなる、というような。)
物語がすべて一つの部屋(というか、複数の部屋のあるアパートの一室)で展開されるからといって、演劇的な作品ではない。そもそも、この俳優たちでは舞台を成立させることは出来ないだろう。だが、この映画ではこの人たちでなければダメなのだ。下手ならば、あるいは、下手であることが良い、ということではない。「これ」でなければ、「この感じ」でなければダメなのだ。だからこれを下手というのは間違っているのだ。緩いとか下手とかいう言葉は、常識的な線、あるいは形を想定した上で、それとの比較で言われる言葉だが、ある固有の必然性があり、一定の強さや密度をもった作品には、そんな言葉は本来通用しないはずなのだ。
この映画がすばらしいのは、幽霊は外に出られないのだが、ベランダにまでは出ることができる点だ(部屋は二階にあるらしい)。そして、映画のすごいところは、実際に「そこ」の風景が映り込むということだ。ベランダに出た幽霊を捉えるカメラのフレームの隅に映る風景の、なんとすばらしいことだろうか(ごく普通の郊外の風景なのだが)。この映画を観ていると、実は、部屋のなかだけが「この世」で、部屋の外こそが「あの世」なのではないかと思えてくる。風景と言うものは、それくらい強いものなのだ。この作品がすばらしいのは、まさにこの点で、部屋に閉じこもりつつも、それが外へと(底が)抜けていることで、この世とあの世とが反転してしまうかのような感覚に導かれるというところにあると思う(この感じはおそらく実写映画でしかあり得ないだろう)。まるで『かえるのうた』のような、あまりに幸福なラストシーンがその反転を示唆するのだが、たとえラストシーンがなかったとしても、この感覚の確かさは揺らがないと思う。