●ツタヤへ行くために部屋を出て、雪のなかで、昨日観た榎本裕一の作品について思った(http://www.switch-point.com/2011/1103enomoto.html)。
ギャラリーに入ると、大小ふたつの直方体が立っている。小さい方の直方体の上に卵が置かれていることで、それが「台」だということが分かる。台、というのは概念であり、形としては直方体である。物が置かれる(べき)上面から、側面へと、水がこぼれ落ちる寸前、その寸止めのような感じで盛り上がっている。あるいは、エッジが削がれている。
台は黒くて、光沢があり、表面は可能な限り滑らかに磨かれている。黒いこと、滑らかであること、直方体であること等によって、一見それは、他との関係を拒否して自律し、自己完結する物体のように見えもする。しかしそれは「台」であり、そうである限り、そこに置かれるべき物との関係によって「台」なのだった。さらに、滑らかな表面は常に室内を反映させ、作品を観ている者とっての自分自身を反映させる。そうである限り、その物体は周囲の空間やそれを見る人の影響から逃れられず、自己完結することができない。とはいえ、滑らかな黒の質感やその形態から、なにものに対してもその影響を拒絶しているかのような(遠く、冷たく、気高い)感触が消えてしまうわけではない。
台とはつまり展示台であり、そもそも、それ自身が見られるためにあるのではなく、その上面に置かれる物が見られるために、その条件として、そのための環境として存在しているはずだ。だから、台が台であることを見る、台が台でありつつ、観られるべきものとなるためには、ふたつの直方体の一方の上に卵が置かれることで「台である」ことが示され、その傍らに、台であることが示された直方体と同様な直方体が置かれる必要があった。つまりこのふたつの台は、互いに役割を反転させた双子である。ここで見られるべきは、台であるという概念とともにある直方体であるから、その上に何も置かれていない台の方が(サイズとしては)大きい、ということになる。台という、それ自体として虚であるものが、虚という概念を含みつつも実として見られること。
黒とは、影ではなく、闇でもなく、光であり、明るさである。光かがやく明るい黒。この台の黒は、そのような黒である。とはいえしかし、光沢のある滑らかな表面は常に周囲を映し込み、その黒を、それ自体として把握することから逃れさせつづける。しかも、そのエッジの処理により、個体であると同時に流体であるかのような錯覚を誘う。台が、台(虚)でありつつも見えるものとなる。しかし、その見えるものはまた、色彩として、物として、位置として、概念として、その地位を確定し、把握することから逃れる。
ギャラリーの外に雪が降り、外が白く輝く時、ギャラリーのなかで、外を反映している黒く輝く台が、いったいどのように見えるのだろうか。自らの内部に白い光をやどした黒い光は、白黒=明暗というのとは違った見え方をするはずであろう。その姿をイメージしながら、ツタヤまでの道を歩いた。