●お知らせ。七日発売の「新潮」12月号に、『不愉快な本の続編』(絲山秋子)の書評(「隣接と反転、隠蔽と欠落」)を書きました。絲山秋子を、新本格のように(というか麻耶雄嵩を読むように)読んでいます。
●「アーキテクチャーとクラウド」に載っている柄沢佑輔と掬矢吉水の対談を読んでいて、柄沢氏の次のような発言で目がとまった。
《そこでは「虚の不透明性」という概念を出しました。コーリン・ロウという建築史家が、ル・コルビュジエの建築を分析して、迷路のような建物をさまよった挙句に、その図面が透明性を持って頭の中に浮かぶことを「虚の透明性」という概念で表し、有名になりました。しかもそれは近代建築特有の空間的特徴だと言っています。対して情報空間的な建築では、それがひっくり返り、最初からすべてわかってしまうガラスの箱みたいなものの中を歩いていくと、身体が迷路のようなものを知覚し、不透明な像が後から頭のなかに立ち上がるというものです。実は、今の時代は、情報デバイスによって人は最初からある透明性を知覚していて、頭のなかに地図があり、何がどこにあるかがわかっている状態にあります。Googleマップなどで何があるかは一瞬でわかるけれど、実際にそこに辿り着くためにはある距離を迂回する必要があります。その過程での身体的な迂回、頭の中で何があるか全部わかっているのに辿り着けないという、ふたつのレイヤーを一度にバンッと味わった時に、不思議な知覚が生じるのだと思います。それを「概念的一望性」と「身体的局所性」が二重化された状況と言って説明しました。》
●何故ここに目がとまったかというと、五日の中沢新一読書会でお会いした時に見せていただいた、設計中の住宅のCGによる完成予想図が、まさにここで言われている通りの感じのものだったから。
総ガラス張りで外から中の構造が丸見えで(カーテンで外からの視線を遮断することは可能)、しかし内部は、二階建てのなかに四階建てが交差的に圧縮されたようになっていて、その各部分が、ヴォイドと、エッシャーの無限階段が三次元化したかのような複数の階段によって結ばれていて、迷路のような構造になっている。ヴォイドによって繋がれてすぐそこに見える場所に、どう行ったらよいのかすぐには分からないような感じ。その内部で動いていると、上下という感覚さえ混乱してしまいそうな。
●この対談は密度もあって射程もとても広く、様々な示唆に富んでいて読んでいると興奮を感じるのだが、しかしそれとは別に、素朴な「感覚」としても、以下の発言はすごく分かる感じがする。アルゴリズムを用いた建築について。
《平均律でできたものの間の要素を交点、基点にして編み換えることをセリー主義がやりましたが、それに近いと思います。ただ、セリー主義は分解の末にノイズに限りなく近い無調音楽をやりましたが、今は単なるカオスやノイズをやろうとしているのではなく、もう一度、カオスを整理した新しい秩序を内包した状況をつくろうとしているのです。ノイズを前提とした秩序をどうつくるかということが、これからの離散を考える時のベースになります。シュールレアリズムの美学とも違うところで、対立物や無関係なものをぶつけて何が起こるかという、チャンス・オペレーション的な実験ではありません。離散とかアルゴリズムは、どこかが繋がっているけれど、違う距離のものや、少し違う個別のものを繋ぐのです。少しずつ違ったものが、ある一定の間隔で反復されたり、持続されながらシークエンスを構成していくと、一義性と多義性を両方持った、確率論的に膨らみを持った美学的な知覚が生じたり、今までとは違う状況が生じます。》
●柄沢佑輔さんの作品、「villa kanousan」。この空間の、虚と実の関係のあり様がとても興味深い。
http://yuusukekarasawa.com/works/2010/03/villa_kanousan.php