チェルフィッチュに限らず、岡田利規の作品では、多くは、男性がわりと能天気なのに対して、基調として女性は不機嫌であることが多いように思う(典型的なのが「労苦の終わり」ではないか、戯曲を読んだだけだが、ぼくはこの戯曲がとても好きだ)。しかし、その不機嫌はあくまで基調として、重たく湿った空気のように漂う感じのもので、あまり尖った感じはしない。だが、『ゾウガメのソニックライフ』では、全体としては緩くてやわらかい感触のある作品のなかで、女性的な「尖った感触」(男性的な尖り方とはちょっと違う)が、何か所かで刺さってくる。それは主に、「日常」を拒否する語りの口調と、不穏な眼差しによってあらわれていると思う。ぼくがこの作品を観て、いままでと一番違っていると感じたのは、このリアルな「尖った感じ」(刺々しさ、と言ってしまうと言い過ぎになるのだが)だった。
これは、いい加減な憶測に過ぎない(憶測というより妄想と言うべきかもしれない)ことを確認した上でいうのだが、もしこの感触が、岡田利規のものであるというより、二人の女性俳優たちからもたらされたものであるとすれば、それは、いままで以上に、作品における俳優のもつウェイトが大きくなったということなのではないだろうか。なんだかんだ言っても、チェルフィッチュといえば、岡田利規によるテキストと演出が圧倒的に際立っているのは事実であると思うけど(それが俳優の力によって支えられていることは当然だとしても)、それがかわってきたということなのではないだろうか。この作品で、俳優の個別性が強く見えてくるということや、形式的にもやや(縛りが)緩く見えるということは、つまり、その分、俳優の領分(存在)がより前に出てきている、あるいは、俳優と演出やテキストとの(力)関係が、すこし変化しているということなのでないだろうか。
●山縣太一の動きが、はじめからあやしい感じで、なんというか不審者的で、それが最初は、よくも悪くも他の四人から浮いた感じで見えたのだが(ノイズ担当、みたいな)、しかし、しばらくすると、他の四人も、本当はみんなそれぞれがバラバラなんだというように見えてくる。だから、『フリータイム』の時にあったような、綿密な役割の受け渡しとかいう感じとはまた別のことが起こっている感じだった。これは、バラバラにみえるような配置、あるいは、バラバラに動いているよう見えるフォーメーションとは違ったことで、本当にバラバラなのかもしれない。すくなくとも、そういう瞬間が何度かはあったように思う。だとしたらそれはすごいことだ。緩く「見える」というのは、そういうことなのかもしれない。
村松翔子の眼差しと同じくらい印象に残った(感覚にひっかかった)のが、山縣太一が時々とる、他の俳優との異様に近い距離感だった。(パーティーのパートを除いて)カップル間の会話さえ会話としては成立しないようなバラバラさのなかで、この、視線と近さが、ある種の強引さで俳優と俳優とを関係づけているように感じられた。しかし、この関係づけは、不穏であり、そこに嫌な緊張が生まれることによる関係性であろう。無配慮、不寛容、あるいは関係性の拒否によって生じる関係=緊張のようなものと言えるだろうか。テキスト的にも、形式的にも、やわらかく緩い(ゆるやかな)感触をもつこの作品の裏地としてある、隠された不穏さ(あるいは、あからさまな?)は、この作品にとってとても重要なものなのではないか。
●だとすると、この作品はとても剣呑なものであるようにも感じられるようになる。『フリータイム』くらいまでのチェルフィッチュの作品は、基本的に「他者への愛(信頼)」(それぞれはバラバラであるとしても、少なくとも他者を指向している)を基調にしていたように思うのだが、『わたしたちは…』以降、それが姿を消しつつあり、むしろ不信が前に出てきているようにも感じられる。実際、この作品では、「生きている彼女」との関係よりも、「死んでしまった彼女」との関係において生きることの方が、より良い生が得られるのではないかという感触が語られていた。
(パフォーマンスの複雑さによって、ともするとテキスト=語りをしばしば聞き損ねてしまう、あるいは、そういえばこんなこと言ってたなあ、という形で、後から思い出して、えーっ、と思う。)