●横浜美術館で、チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』。すごいものを観た。作品として、簡単に「すばらしい」とは言えない疑問や懐疑もあるのだが、そのような抵抗感、違和感も含め、すごいものをみせられた感じ。
●まず最初に松村翔子があらわれたところで、その姿勢というのか、仕草というのか、佇まいというのか、が、歴史として蓄積されたチェルフィッチュ的身体が深化して自分自身を突き抜けていったような感じで、これからすごいものがはじまりそうな予感で身を引き締めさせられた。いきなり掴まれた。いつもの、ラフな感じで俳優がふわっと出てくる感じとははじめから違った。
●テキストの次元では、かなりシンプルに(悪く言えば貧しく)なったように思う。例えば『三月の5日間』や『スリータイム』は、その戯曲-テキストそのものをただ読んでも面白いと思うけど、これは、テキストそのものを読んでもあまり面白いとは感じられないと思う。この、テキストとしての貧しさが、パフォーマンスをより高度にしている(テキストとパフォーマンスとの関係をより不安定かつ自由にしている)と感じられるところと、言葉そのものがストレートに立ちすぎてパフォーマンスが硬直していると感じられるところがあった。
●ちょっと「未明の闘争」を想起させるような、《女は、十分後に夫が帰ってきます》というような、文法的に妙な「は」の使い方が頻出するのだが、書かれるとちょっと「あれっ」と思うようなこのような使い方は、俳優の口から出るとほとんど違和感がない。これは、しゃべり言葉は「文」としての拘束よりも、時間の流れのなかで話され、理解されるからなのだろう。
●身体の動き、俳優のキャラクター(衣装によってもより明確に色分けされている)、役柄、語られる内容(場面)、言葉(語り)そのもの、そして、反復される劇中の時間と計測される現実の時間、などが、それぞれで分離、自律して動きつつ、交錯したり干渉し合ったりする、そのフォーメーションの複雑さは、ぼくがいままで観たどのチェルフィッチュ(および岡田利規)よりも高度になっているように感じられた。しかしそこで語られる場面、および主張はきわめてシンプルで、表面上は、とても静かに、ゆったりと劇がすすんでゆく。
言葉はシンプルで、動きは抑制され、主張は誤読される余地もなく明確になされ、これみよがしに示される構造的な複雑さもなく、一見、とても静かにわかりやすく進んでゆくものが、同時に、こんなにも複雑なフォーメーションによって成立しているのだということの驚き。
●舞台上に男の俳優がいて、女の俳優が、男は建築中の高層マンションを見ていますと説明しながら、左手を、小指がつりそうな感じで上げている場面があった。この仕草-動きは、それ自体で面白いものであるのと同時に、高層マンションの「高さ」のイメージを示すものでもある。このような関係は、演技という場では普通のことだと思うけど、しかし、この仕草はそれ自体として特異なので、仕草そのものと「高さ」のイメージの関係がすごく(分離寸前にまで)危うくなってしまって、その関係の不安定さによって、仕草そのものとも高さのイメージとも異なる、第三のイメージがわき上がってくるように感じられた。今までのチェルフィッチュでも、仕草そのものとイメージとが、分離したり交錯したりするという動きはあったと思うのだが、異なる二つの流れの「関係の微妙さ」によって(見ることも触れることも出来ないような)「第三のイメージ」が出現する、というところまで行ったのを観ることが出来たのははじめてであるように思われた(『フリータイム』には、ちょっとそういう気配はあった気がする)。
他にも、最初は「明日は選挙だ」という説明だと思っていたら、最後まで聞くと広報カーの言葉の模倣だったと分かるセリフを喋りながら舞台後方を女の俳優が移動する場面で、俳優のその移動と、広報カーの移動のイメージとが不意に結びつくのだが、そのイメージの結びつきはやはりあまりにも突飛で不確定なため、結びついた次の瞬間からあやふやになり、まさにその関係の不確定さのなかから、第三のイメージがわき上がってきたように感じられた。
このような、見えるものでも聞こえるものでもない、その場にあり得ないイメージの出現をもっとも強く感じたのは、奥さんの同僚が招待されて夫婦のマンションに向かう途中の公園で、女の子が二人遊んでいたことが、三人の女の俳優たちによって語られる場面で、ぼくにはこの場面がこの作品中でもっとも「わーっ」と思って鳥肌がたった。
(あと、この同僚が電車に乗っている場面もよかった。電車のなかの液晶モニターの形を示す時、この作品でほとんど唯一、動きと語りが同期する。)
●この作品の主張の部分の中核であると思われる、「闇からの声」が延々と語られる場面が、このような形であることには疑問を感じた。この作品中で唯一、この場面には「退屈さ」を感じてしまった。とはいえ、これがなければ、そもそもこの作品は成立しないのだが。
例えば、終盤に唐突に、夫婦の奥さんの方が、「わたしたちがこんなに幸せでいて良い」という根拠がないことへの不安を口にするのだが、この不安がもっと早くから口にされ、闇からの声が、この不安との絡みのなかで現れるようになっていれば、この「声」が、作品全体のフォーメーションともっと絡んでくるのではないかとも思われた。
しかし、そういうことではないのかもしれない。そうではなく、「この声(言葉)」だけを、他から分離した形で是非とも立たせたかった、ということなのかもしれない。しかしそれは、作品としては「退屈な」場面となってしまう。これはとてもむつかしいことだ。
●今日、「見たこと」については、今後もずっと、いろいろ考えてゆくことになると思う。