神奈川芸術劇場チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』。みなとみらい線にはじめて乗った。
前の、『わたしたちは無傷な別人であるのか』の(のちに『わたしたちは無傷な別人である』になったらしいけど、そっちは観てない)、隙がなくタイトで攻撃的な感じ、『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』の高度に練られた技巧的な感じとはまた違って、今回はわりと、形式的にも内容的にも(よくも悪くも)ちょっと緩めな、リラックスした感じ。内容的にも、『わたしたちは…』の逆を行ってるというか、『わたしたちは…』に対して、「そりゃそうかもしれないけど、そんなこと言われてもさあ…」みたいな。岡田利規の作品の多くは基本が男女の(カップルの)対話(というより「対置」というべきか)で出来ていて、作品の主になる調子は女性の側の「声」である(『ホットペッパー…』のように対話の成立しない話もあるので、やはり「対置」だ)ということが多いと思うのだが、この作品もそういう感じだった。そして、作品としては緩めだけど、そのキートーンとなる女性の「声」(女優の、ということではない)は、ちょっと尖った(苛立った)感じ。あと、この作品では、一人一人の俳優の個別性のようなものが、今まで以上に強く出ていた気がする。チェルフィッチュ独自の演出に束縛されているというより、そのなかで一人一人が自分を出せる感じになってきたということだろうか。
ざっくりした「感想」をいえば、前半は、こんなに美しくしちゃっていいのだろうかと思うくらいに美しくて、うっとりと見入ってしまったのだが、後半はやや単調に感じられてしまった。意図的にざっくりやろうとしているのかもしれないが。たとえば、映像の使い方とか、わかりやすいと言えばわかりやすいのだろうけど、ちょっと簡単な気がした。あと、最後の方で、「人間がトリみたいには飛べないとしても、そんなの飛べる必要なんかないからだ」みたいな話をした後で、トリみたいにパタパタと羽ばたくしぐさをしながら椅子から飛び降りるのだが、いままでチェルフィッチュでこんなベタな動きを見たことがあっただろうか、と、ちょっとびっくりした。それが必ずしも良くないということではないけど、えっ、それやっちゃうの、みたいな感じはいくつかあった。
はじめの方で、主に女性の俳優によって、男性の夢(夢のなかでの「既に死んでいる彼女」との関係)が語られる場面は、本当に夢のように美しかった。くるくると腕を回転させながら語る女性の腕から手先と、後ろを向いている女性が宙に投げる洗濯バサミとが、夕日のようにあてられた照明のなかで、ゆらゆら揺れて、ひらひらして、きらきら光っていて、そのなかで語られる夢の語りの内容、その声、それぞれバラバラに動く俳優たちの動き、そして音楽が相まって、この場面が本当に「一生つづいたら」いいのに、と思うくらいだった。このような美しい場面では、投げられた洗濯バサミが床に落ちる音さえもが、暴力的なノイズのように聞こえる(些細なものに暴力的に大きな効果を与えるということでは、『わたしたちは…』のコンビニのレジ袋とかもすばらしかったが)。そしてそれも含めて、この場面は美しいのだ。
あと、ものすごく印象に残っているのが、村松翔子の視線だった。村松翔子は、主に、佐々木幸子と山縣太一に向けて何度か、いじわるそうなというか、不信感をこめたというか、胡散臭いものを見るようなというか、そういう尖った眼差しを向ける。この眼差しは、テキスト的な意味でのこの作品の内容とはほぼ無関係だと思うのだが、俳優たちのする数ある印象的なしぐさのなかでも、この作品の基調をなすものの一つなのではないかというくらい、強く突き刺さってきた。いいまでチェルフィッチュを観て、「眼差し」をこんなに強く感じたことはなかったので、この不穏な眼差しに、戸惑うとともに、強く引き付けられた。
この作品で最も気になったのが舞台美術だった。あれだと、舞台をあらかじめ、前方、後方右、後方左の三つに分節=分割してしまっているから、分かり易いといえば分かり易いのだが、(『わたしたちは…』で究極的にすごかった)俳優たちのフォーメーションや、ちょっとした動きやしぐさによって、空間の様相が大きく動いてゆくというような感じが弱くなってしまっているように思われた。俳優たちは、あらかじめ仕切られた空間のなかを動くしかない、という感じ。それがちょっと苦しそうというか、あらかじめなされている三分割を越えられない感じがした(棺桶のようなボックスが動くことで、それがちょっとだけ動いたようには思うけど)。せめて、あの、ラグビーのゴールのようなフレームのようなものの垂直のポールが、人の身長より低いくらいの高さだったら、かなり違うのではないかと感じた。あるいは(あの「高さ」に意味があるのだとしたら)、片方だけでも低かったら、とか、横棒がなかったら、かなり違うのではないかと、観ている間ずっと感じていた(『フリータイム』の装置は、あの「低さ」がとても重要だったように思う)。
●あと、これはまた全然別の話だが、この作品では五人の俳優がほぼ舞台に出ずっぱり(三人は一度ずつ舞台から消えるが、二人は出ずっぱり、だったと思う)なのだが、この感じが、作品としての狙いやあり様はまったく異なるのだが、『ドッグヴィル』の、セットの仕切りがまったくないので、常にすべての村人が映ってしまう可能性がある(だから俳優は、自分の場面でなくても、カメラがまわっている限り「村人」でいなければならない)、という感じにちょっと似ている気がする。