三鷹市文化センター星のホールでサンプル『ゲヘナにて』。ずいぶん久しぶりにサンプルが観られた。多分、『通過』の再演の時以来だから、二年ぶりくらいになる。いろいろ余裕のない生活をしていると演劇を観ることが難しい。サンプルが公演していることを知ったのは今朝で、あー、サンプルやってるんだ、観たいけど、今、余裕ないなあ、と思って、でも、そんなこと思っている間に、パッと出かけちゃえばいいんじゃん、三鷹だし、近いし、と思い、そう思った時にすぐ行動しないとまた観そびれることになると思って、二時半からの公演にすれば、夕方から夜にがっつりと用事もこなせるし、ということで、出かけた。
●二年ぶりのサンプルは、前の感じとかなり違っていた。ぼくのイメージでは、サンプルは、最初普通だった世界が、細かい違和感が積み重なってゆくうちに徐々に変質し、最後にはそこまでやるのかという独自の「嫌な感じ」にまで到達する、いわば世界が理性的に狂ってゆく様を、すごく精度の高いパフォーマンスで見せる、という感じだったのだけど、そういう、段取りを踏んでいるうちにとんでもないところにまで連れて行かれる、というのとは根本的に違うつくりになっていた。
●段取りがない、展開がない。いくつかの断片が、同一平面上でも、リニアな時間軸の上でもない時空に、明滅しながらあらわれ、それぞれに緩く関係がつくられてゆく、という感じ。ぼくがイメージしていたサンプルとは真逆というか、隙のない時間-展開という軸が完全に解体されていた。むしろ隙だらけというか、隙と隙の間に、小さなエピソードがポッ、ポッと浮かんでは消える。時間が解体されて空間化されるという言い方は簡単過ぎるけど、複雑な照明や音響の効果もあって、散逸的な時空がつくられていた。
●舞台は平面ではなく、中空から客席レベルまでの下り坂として設定され、俳優は坂を上り下りし、物は坂を転がり落ち、風船が上昇し、重さを失った遺体が宙吊りにされる。ぼくの貧しい演劇経験では、即物的な意味での「物」が、たんに小道具という範疇を越えて(劇中で象徴的な意味をもつものとしてではなく)、ここまで俳優と同等に作品のなかで生かされているものを見たことはない(ダンスとかではよくあるとしても)。例えばチェルフィッチュが、舞台上の「少ない物」を、意味を多重化させ、様々に異なるイメージを重層的に付与させつつ、しかもざっくりと即物的な感触を失わせずに使うという感じとも違った、物が乱雑にあることそれ自体が何かを主張している感じ。冒頭で、太宰先生が立ち上がると、椅子として使っていた四足の台的な物が坂を転がり落ちてひっくり返る。これがどこまで事前に計算され、狙われていた効果なのかは分からないけど、この台的な物の転がり落ちが、物理法則と演劇的なもの(象徴的作用)との隙間に転がり落ちる何かのように感じられた。この作品の様々なところに、演じるという象徴的、人間的な行為と、物がそこにあったり(人の身体があったり)、転がり落ちたりする、音が色んな方向から聴こえたり、照明がついたり消えたりするという即物的、物理的な次元との間にぽっかりと開く隙間を感じた。この隙間こそがこの作品ではないか、とか。
●実際には、三鷹文化センター星のホールという連続性のある限られた空間、一時間何十分という連続性のある限られた時間のなかで成立する『ゲヘナにて』という作品は、その隙間によって細かく分断され、その上で、互いの細部が、時間や空間とは別の関係性によってさまざまに関係づけられてゆく、という感じ。いわゆる、その場において現前する時空の感触とは異なる、別次元の関係の折り重なりの感触が立ち上がってくる。これは、今までぼくが知っていた、時間-展開-論理によって支えられているサンプルの作品とはまったく違っているように思われた。
●だからなのか、いままでの作品の「狂気」的なところは、様々な歪みの積み重ね、その負荷のふいの露呈として説得力があったと思うのだが、この作品では、そのような積み重ね的な展開によっては出来ていないので、「狂気」的イメージがやや上滑りしているように(手癖のように)感じられた。サンプル的なえぐい感じや独自の嫌な感じはあまりなかった。
このような構造の作品では、「狂気」的なイメージはなくていいんじゃないだろうか。あるいは、それは今までものとは違う形をとる必要があるのではないか、とは思った。
●この作品は、まだまだ、もっと面白くなる余地があると思った。
●終幕後、松井周さんがアフタートークをしている時、劇中で天井高くまで浮上した白い風船が、浮力を失ってすーっと降りてきた。俳優が去った後の散らかった舞台に、風船がすーっと降りてくる。この感じが、この作品とすごくシンクロしているように感じられた。
●あと、タクシーと無線がすごく好きだ。あのタクシーが出てきた時点で、この作品は絶対に面白いに違いないと思った。