●42歳になった。
三鷹市芸術文化センター、星のホールで、サンプル『通過』(作・演出/松井周)。サンプルを観たのは『カロリーの消費』以来で2度目。この作品は、サンプルとしての第一作の再演であるそうだ。
『カロリーの消費』では、作品が戯曲・演技・演出のどのレベルでも驚くような精度で練り上げられていて、まるで精密機械のように作動するのだが、しかし、その精度が、あるいはその精度によって醸し出させる「何とも嫌な感じ」が、一体どこに向かおうとしているのか、何に奉仕しようとしているのかがよく分からなかった。よく分からないというのは悪口ではなく、その「よく分からなさ」こそが、作品の独自の感触であり、謎であり、魅力の源泉でもあるようにみえた。観客は、どの登場人物、どのエピソードに対しても思い入れすることを拒まれ、感動やカタルシスを奪われ、おそらくつくっている側もまた、自身の表現の欲求や伎倆の顕示欲を抑制され、つまり、様々な欲求や感情がいったん括弧に入れられた上で、すべてが仮の一項として置かれ直し、それによって実験の精度が高められ、つくる側も観る側も、ただ作品全体の構造に奉仕し、その作品の行き先を見守るように強いられているような感触。そのようにして実現された精度への驚きと感心がまずあり、しかしそれ以上に、そのような精度で作動する機械を目にすることへの砂を噛むような空虚感こそを作品の感情として受け取る、というような経験だった。そして、その嫌な空虚感こそが、作・演出家の見たかった/観せたかったものなのではないか、と。
『通過』が、『カロリーの消費』と違うように感じられるのは、そこに作品を支える基底的な感情があらかじめあるように思われたからだ。どの登場人物に対しても思い入れを許さないように組み立てられているようにみえた『カロリーの消費』と違って、『通過』には明らかに中心となる人物(妻・洋子)がおり、その人物の感情こそが、あるいはその演技こそが、作品を支えているように思われた。それは例えば、カサヴェテスの映画を、ジーナ・ローランズの感情が支えているのと同様に。
とにかくこの人物は苛立っている。作品の始めから終わりまで苛立っている。この苛立ちが作品を基底的な感情として、まずあるように思われた。そして、この苛立ちの感触がとてもリアルに思われた。苛立ちというのは「キレる」のとは違う。キレることが出来ないからこそ、苛立ちが持続する。この女性は、苛立ちそのものが人格化したかのようですらある。
あくまで個人的な話だが、ぼくが男女関係における女性の基本的な感情としてまずイメージするのがこの「苛立ち」で、女性はほとんどいつも何かしら苛立っていて、男性は、その苛立ちの原因が自分の無神経さにあるんじゃないかと思ったり、その苛立ちはいくらなんでも理不尽じゃないかと苛立ちに対して苛立ったり、しかし結局のところ、自分はその苛立ちにこそ惹かれているんじゃないかと思ったりする。自分自身のイメージを勝手に作品に付与するのはどうかと思うし、だからこれはごく素朴な感想として書くのだが、作・演出家の松井周もまた、この登場人物の苛立ちにこそ魅了されているのではないか、と感じたのだった。極端なことを言えば、この作品を構成するほとんどすべての要素が、この登場人物の女性を苛立たせ、苛立ちを持続させることに奉仕するためにあるかのようにさえ思える。そして、この女性を演じる女優(辻美奈子)は、終始ピンと張りつめたテンションで、常に転がり落ちてゆきそうでぎりぎりに踏みとどまっているような危うい状態をキープしつつ、時に押さえ気味に、時に激しく、苛立ちつづける。このテンションが本当にすばらしいというか、なまなましいというか、呼吸のひとつひとつまでがリアルというか、とにかく圧倒された。それによってこの作品では、苛立ちが、キーンと響くモスキート音のドローンのように(潜在的かつ顕在的に)ずっと持続する。松井周はチラシに《この作品の居場所を確保したい》と書いている。苛立ちとはまさに、感情の落としどころがないということであり、つまり居場所を確保できない感情のことで、そのような感情が書き込まれる居場所として、この作品があるのではないか。この苛立ちを「肯定する」ためにこそ、この作品はあるのではないだろうか。
最初、日常的とは言えない光景ではあるが、それでも静かにはじまるこの作品は、次第に少しずつ、しかし次々とと、事態は思いもしない方向へと転がって行き、それによってみるみる軋みが(ゴミが溜まるかのように)増大する。この展開を、実験室のなかの実験のように冷静な態度で距離をとって眺めつつ、しかしどこか、嫌な方向へ転がって行くのを期待していて、その嫌な感じこそを見たい、それを自虐的に楽しみたいとでもいうような作家の眼差しが、その底に感じられるという点は、『カロリーの消費』とかわらない。そこにあるのは設定であり関係でありその発展であって、人物でも物語でもない。決定的に誰かが悪いということも、決定的な大きな事件が起きたということでもなく、ありふれているというわけではないが、決してあり得ないというわけでもないような事柄が重なってゆくことで、軋みがギシギシと増し、光景はどんどんシュールなものとなってゆく。ひとつひとつの細部や演技は、とてもリアルに組み立てられているのに、そこに起こっている出来事は、あまりに突飛であるためにどんどん嘘っぽくなってゆく。しかしそのシュールな光景の細部もまた、非常にリアルに、しっかりと組み立てられる。しかしこの後が、『カロリーの消費』とは違っていて、この増大してゆく軋みのすべてが、妻の苛立ちによって受けとめられ、そこへと収斂してゆくように感じられる。軋みの増大が妻の苛立ちを増進させているのか、あるいは、モスキート音のような持続する苛立ちこそが、この混乱した事態を招いているのか、どちらかわからないが、とにかくこの作品の細部のすべてが、まるで妻の苛立ちと共振するかのようでさえある。妻は、このとんでもない状況を受け入れ、それを背負い切ることも出来ず、そこから逃げ出すことも出来ず、そのようなふらふらした落ち着き場所のない妻の存在のあり様が、居場所のない感情としての苛立ちとともに立ち上がり、そのような居場所のないものの居場所を設立するためにこそ、この作品が成立しているかのようだ。
この作品の男性=夫は徹底して無力な存在である。事故によって性的に不能となってしまったらしい。家に入り込んできた妻の兄やヤンキーカップルに対して、何も言うことが出来ない。家や敷地内に増殖するゴミにも対処できない。自分の母親の介護さえ放棄している。妻との性交渉は拒否されつづけ、ヤンキー女性を疑似ペニスで犯すことにも失敗する。あげく、妻の兄からブタのように扱われ、妻の浮気相手から、自分が使うためにあるはずの疑似ペニスによってオカマを掘られる。しかし、この夫の無力さは、あくまで作品の構造によって要請されたもので、そこに、ある悲しみや哀れさといった感情的にリアルな実質はあまり感じられない。夫は、存在することで、むしろ存在しない者(例えば不在の父)よりもさらに存在が希薄になるかのようだ。夫はほとんど受け身であり、たまに積極的に何かしようとするとほぼ失敗する。彼の積極的行為は、新製品のガムのサンプル調査くらいだ(彼はまるで、味のないガムのようだ)。しかしこの失敗はむしろ彼によって望まれたものでさえあるかのようだ。身体として舞台上に長く現前しながらも、作品の展開にはほとんど積極的に関与することのない夫は、作品内部にありつつも、まるで作品の外から妻を見ている視線の形象化であるかのようにも感じられる。彼は、妻の苛立を受け止める、そこに留めさせるためだけに存在し、そのために、本来持っていたかもしれない様々な積極的な能力を(自ら?)次々と手放して、とうとう完璧に受動的な存在にまでなる。
とはいえ、『通過』という作品を、ただ、妻の苛立ちという感情だけに収斂させてしまうのは、いくらなんでも乱暴な話ではある。例えばこの作品には、家族関係やカップル関係に対する、批評的で挑発的な眼差しがある。父の不在を代行する母の磁力圏としての家があり、そしてそこへ、その父=母となった者からの権利の委譲によって偽の父の位置を得た妻の兄が闖入してくる(偽の父はオリジナルの父の写真を破りさえする)。そしてそれが、事故にあって不能になった夫のペニスを代行するものとしての疑似ペニスの存在とも重ねられ、その機能の失調-迷走が事態の混乱を招く。そういった、ある集団における関係の力学の構造的な考察であるという側面ももつだろう。そこで語られる(カップルの力学に対する)ユートピア思想としての三人関係のもつ胡散臭さとかも、面白いと思った。これらの要素を、たんに妻の苛立ちへと奉仕するためのものだとするのは、やはり乱暴で、作品の矮小化でさえあるかもしれない。しかし、ぼくがこの作品を見て最も感銘を受け、魅了されたのは、妻の苛立ちであり、苛立つ妻とその夫との関係性のリアルさであった。