●『インターステラー』をなかなか観に行けないので、とりあえず『インセプション』をDVDで観た。以下、ネタバレしまくりなので注意されたい。
●この物語は三つの異なる目的の絡み合いとしてみることができる。(1)大企業の実力者がライバル企業を弱体化させようとする。(2)殺人容疑をかけられている男が容疑を晴らして子供たちに会えるようになろうとする。(3)巨大企業(1のライバル企業)の後継者が父との関係の確執からくるトラウマを解消しようとする。そして、(2)の男が、他人の夢に潜入してそこから情報を抜き取るという特殊技能をもち、その技能を使って産業スパイのような仕事をしていることを媒介にして、この三つの目的が絡まり合う。
(2)の男は、特殊技能(夢への侵入)と問題(妻への殺人容疑)の両者をもつことによって(1)の権力者に利用される。(3)の後継者に「企業を弱体化させるようなアイデア」を(盗むのではなく)「植え付ける」ことに成功したら、(1)は自らの権力を使って(2)の殺人容疑を帳消しにする、ともちかける。(1)と(2)は、(3)の後継者が父との関係に問題を持つことを利用して、夢の奥深くで「父とは違う、自分自身の道を行け」というメッセージを、父との和解の感情とともに植え付けて、目的を果たそうとする。
話の骨子はこれだけだ。物語の外枠を支えるのは確かに企業間の抗争であるが、主な舞台が「夢のなか」であるという点が特異なものとなる。(3)の夢のなかで(1)と(2)が戦う具体的な相手は、(3)の「こころのなか」に仕組まれたブロックだ(大企業の後継者である彼の「こころ」には、コンピュータのセキュリティ・ソフトのようなものが仕掛けられている)。(3)はただ、夢のなかで父との和解だけを願っていて、その点で(1)と(2)は(3)の味方であり、自分のこころのブロックこそが、自分の目的達成の障害になっている。とはいえ、この「目的」は、(1)と(2)によって操作され、利用されている(そそのかされている)ものだ。だが、「父との和解」そのものは、彼がもともともっていた願いでもある。ここで三者の利害は一致しているとさえ言える。
(この映画では、(3)の男の「こころ」、つまり彼の存在、彼の立場、彼の葛藤は、いわば「舞台」に過ぎず、あるいは(1)(2)にとって利用すべき手段でしかなくて、(3)は「敵」ではない。つまりこの物語は、敵との抗争の話ではなく、ある環境=舞台のなかで設定された目標をクリアする、というゲームになっている。)
ここに(2)の男の、妻との関係におけるトラウマが絡む。かつて(2)は、自分の能力を利用し、夢の奥深い層で妻と長い時間を過ごし、二人だけの世界を築いた。妻は、夢の世界から現実への帰還を拒否する。そこで男は、この世界は偽物であり、死によって本当の世界へ帰ることができるのだ、というメッセージを妻に「植え付ける」(夢のなかで死ぬと目覚めるという設定になっている)。男は無事、妻とともに現実に帰還するのだが、現実に戻ってからも妻への「植え付け」は効いていて、妻は「この現実」も現実ではないと感じ、死によって本当の世界へ帰ろうとする。妻の死以降、男が潜入する夢には必ず妻があらわれ、男の目的の邪魔をするようになる(トラウマと罪悪感)。この「妻の幻」が、物語の不確定要素として機能する。
●この作品(の世界観)で特徴的なことは、あくまでも夢は夢であって、科学技術を介してつくられたVRではないという点だろう。夢は、「マトリックス」や「ソードアート・オンライン」のような技術的につくられた別世界ではないし、夢への侵入は、「攻殻機動隊」のような技術的な脳への「クラッキング」ではない。他人の夢に侵入し、それを書き換えようとする時、彼らはヘッドギアのようなものをつけたりしないし、仰々しい機械を使ったりもせず、ただ、腕から延びた点滴の管のようなものを小さなケースに納められた機械につないで眠るだけだ。夢を外からモニターで観ているような存在もいない。この作品では、夢への侵入に関してテクノロジー的な匂いを極力排除するような配慮がなされているだけでなく、外部から客観的にそれを見る視点が排除されている。夢をみるためには眠らなければならないし、その夢に参加することなしに他人の夢を見ることはできない。そして、そこに参加する限り、他人の夢であっても、自分のこころのありようが世界に反映してしまう。
だからここで夢は、テクノロジーによって可能になったものではなく、自然な人間の精神活動そのものであり(つまり、ヴァーチャルではあってもアーティフィシャルではなく)、夢への侵入はその精神活動への同調的介入という形で表現されている。本来は他人からは伺えない精神活動を直接的に扱っているという点で瞑想の技術のようなものともいえる。この事実は、『フォロウイング』や『メメント』など「記憶」を主題にしたノーランの過去の作品と通じる。
とはいえもう一方で、この映画の「夢」の世界は明らかにゲーム的な世界であり、不可解な領域であるというより、様々な明示的ルールによって規定されている。たとえば、通常は夢のなかで死ぬと目覚めるが、鎮静剤による深い眠りの夢で死ぬと「虚無に落ち」て意識が戻らなくなる、とか、鎮静剤によって深く眠っていたとしても「キック(三半規管への刺激)」があれば目覚める、とか、「トーテム」によって現実と夢は明確に区別できる、とか、夢がきっちりと階層的に秩序化されていて、異なる階層間の時間のズレの割合も計測可能となっている、とか、このようなルールはいかにも恣意的であり、夢や精神の本質に関わるというよりも、この物語(というゲーム)を成立させるために都合良く設定されたものでしかないようにも感じられてしまう。
この作品の「夢」は、(不確定要素まで含めて)合理的に設計された世界であり、ルールの明示された世界で、明確に設定された目的に向けて、合理的に行動するというゲームが、この映画の物語となっている。
●この作品のキモは、異なる目的(思想)の間の抗争でも、不確定要素の介入による展開の意外性(物語の運動性)でもなく、夢への侵入という特殊能力を通じて示される、精密に設定された世界観の提示であろう。つまり、この作品で重用なのは物語を語ることよりも、物語を通じて示される世界観にあり、物語はそれを伝える媒介だろうし、細部もまた、それ自身が何かを語るというものではなく、設計された世界のなかの一つのピースとして意味をもつ。
この映画によって示される精密に構築された「夢」の世界は、確かに、あまりにも明示的なルールによって規定され過ぎているように感じ、それは、我々が実際に見る、経験する、夢の感触とは異なるようにも思われる。しかしそうだとしても、この映画全体としては、我々が感じる「夢」に近いリアリティを、ある程度はつかんでいるように思われる。
この映画では夢が迷路として構築され、しばしばパラドックスという言葉が強調され、エッシャー的な空間表象があらわれる。しかし、この映画のリアリティは、空間表象よりも時間的な操作の方にあるように思われる。この映画を観ていてつくづく感じるのは、わたしは、少なくとも精神的には、客観的な時間の秩序とは別の時間のなかで生きているのではないかという強い感触だ。この映画において夢とは、この現実とは別の世界であるというよりは、客観的な時間とは別の時間であるように思う。少なくとも、客観的と言われる「この時間」とは別の時間が、今という結節点に常に複数交錯しているという感触に対して、とても強く惹かれるものがある。