『デビッド・リンチのホテル・ルーム』

●『デビッド・リンチのホテル・ルーム』をビデオで。テレビドラマとして製作された三話からなるオムニバス。三話中二話(一話目と三話目)をリンチが監督している。リンチが監督しているパートは、バリー・ギフォードが脚本を書いている。これを観ると、リンチの映画作家としての作風の形成に、バリー・ギフォードとの共同作業がいかに重要であったかを思い知らされる。(バリー・ギフォードは『ワイルド・アット・ハート』の原作者であり、『ロスト・ハイウェイ』の脚本の共同執筆者である。)『ツイン・ピークス』で共作したマーク・フロストは、おそらく、リンチ的な世界を一般的に受け入れられやすいような時間と空間のなかに配置することに貢献したのだろうと思われる。『ツイン・ピークス』の世界は、テレビシリーズとして、まるで終わりがないかのように延々とつづくという時間のなかでこそ可能になるものだろう。バリー・ギフォードは、本来無時間的であるリンチ的な世界を、はじめがあって終わりがあるという線的な時間に縛られ、一定の時間内に納めなくてはならないという時間的な制約をもつ「映画」という媒体のなかで、どのように構造化するのかという点で、おおきな役割を果たしたと思われる。
舞台はほぼホテルの一室の内部のみで、限られた登場人物たちの台詞のやり取りだけで物語が語られる。このようなタイプの作品の演出をリンチが得意とするとは思えない。事実、一話目は、脚本としては興味深いと思われるが、作品としての密度はあまり高いとはいえない。しかし、三話目の「停電」は素晴らしい作品で、リンチの作品のなかでも最も密度が高いものの一つであるように思われる。(ただ、脚本がちょっときれいに纏まり過ぎている点が物足りないのだけど。)
この作品は、まず設定からしてリンチのためを思ってつくられたとしか思えない。舞台は停電となったホテルの部屋で、光源は数本のロウソクと一個のカンテラ、そして時折光る稲光りのみだ。ここでは、空間が闇によって塗りつぶされ、人物の動きも大きく制約される。リンチは、空間内の人物や事物の動き(アクション)によってなにごとかを表現するような監督ではない。(リンチにとって、人物の行動はほとんど意味がなく、事態の打開に役立たない。限定された空間のなかで人や物がどう動くか、という問題はリンチにはまったく無縁だろう。)むしろ、人物が凝固して身動きできなくなる時(つまり「空間」が消失する時)に、その強度がもっとも高まる。この作品では、暗闇を背景にして、夫婦二人のクローズアップが多用される。暗く塗りつぶされた空間、人の顔、そして、ぽつりぽつりと語られる言葉(声)、点滅する稲光りのみが、この作品の構成要素の大部分を占める。二人の、簡単には脈絡を掴めないような会話のなかから、この夫婦にはかつて子供を水死させてしまったという過去があり、それをきっかけに妻が精神の病をわずらい、専門医に診てもらうためにオクラホマからこのニューヨークにあるホテルまでにやってきたのだ、ということが徐々に分ってくる。しかし、このような「お話」はとりあえずどうでもいい。ここで妻の役を演じているアリシア・ウィットという女優が素晴らしいのだ。子供の水死によって精神を病んでいるという物語上の設定がまだ知らされる前、彼女が最初にあらわれるショットから既に、もう、全身が緊張と不安定で満たされているのが一目で分ってしまうようなテンションに貫かれている。この、まるでリンチ的な世界を自分の身体によって体現しているようなこの女性は、台詞一言ごとに、顔の表情、台詞の調子や抑揚やスピードを不安定に唐突に変化させ、アクションとは言えないようなほんのささいな身振りや体の構えによって、身体の緊張と弛緩というか、凝固と溶解の間の幅の大きな振幅を一瞬で走り抜ける。彼女の不安定な状態の変化は、外的な状況とほとんど関係がなく、稲光りのように唐突に揺れ動く。そしてその横に、いかにも実直な田舎の青年といった(不安げでありながらも、変化にとぼしい)夫の顔が配置される。背景(空間の秩序や外的状況)から切り離されて浮かび上がる顔=表情。外的な理由と関係なく移ろう感情や情動の流れ。闇。不安定に持続するノイズ。それを切り裂くような突然の光の点滅。理由のないままあらわれる強い緊張とこわばり(常に緊張が支配しているが、それが理由無くふい一気に高まって身動き出来なくなる)。時間や空間に縛られない、様々な徴候の明滅。どこか遠くから届けられる声(指令)。これらのリンチ的な特徴が、五十分にも満たないこの作品に、ぎゅっと詰め込まれている。(霊媒的とも言えるアリシア・ウィットの演技、その顔、声、身体の表情の変化、を見ているだけで圧倒される。)