07/12/14

ブニュエル『銀河』をビデオで。この映画を観たのは、確か83年か84年頃に日本で公開された時以来。同じ頃に、有楽シネマで『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』が二十年ぶりとかでリバイバルされたり、シネ・ヴィヴァンで『パッション』とか『ミツバチのささやき』とかが公開されたり、『ションベン・ライダー』がつくられたりしたわけで、いわばシネフィルバブルのはじまりの頃。(あと、今、手元にある『構造と力』には、「1983年11月5日 第1版第4刷発行(第1版第1刷発行は、83年9月10日)」と書いてあるから、この本を読んだのもその頃だと思う。)驚きと目眩のなかでいろんな映画を観始めた頃で、その頃に観た何本ものくらくらするような映画のなかでは、印象はあまり強くはなくて、ずっと、晩年のブニュエルの、割と緩い感じの作品という認識のままだった。
緩い感じの作品というのはその通りなのだが、巨匠の晩年にのみ可能な自由闊達さが、思いのほか新鮮に感じられた。おそらくブニュエルにとっては、愛憎が拮抗すると思われるキリスト教を正面から題材にしつつも、つねに「余裕げ」な距離を保ちつづけている所が、若い頃に観た時には物足りなく感じられたのだろう。いくつものエピソードが、巡礼する若者と老人の二人組の道中を縦糸にしてルーズに結びつけられている。緩い結びつきによってしか得られないだろうと思われる、エピソード間の予期せぬ結びつきや関係性が鮮やかに思えた。例えば、まるで巡礼の老人の回想エピソードのようにして、無造作にキリストが登場するのに驚く。(しかもこの映画のキリストは、映画で観られるキリストのなかで最もチャラいんじゃないかと思うくらい、チャラい感じなのだ。常に半笑いの遊び人風で、どことなく信用できなさそう。)無造作であることの新鮮さが、この映画を貫いてずっと持続する。巡礼者の若い方が、子供達による、いかにも教師からのお仕着せであることがぷんぷんする説法を聞きながら、革命家たちによって銃殺されるローマ法王を想像しているシーンで、若者の想像のなかでの銃声が、その隣にいた男にまで聞こえるという場面は、なんということもないと言えばなんということもないのだし、映画的な仕掛けとしてはプリミティブでさえあるのだが、何故かハッとさせられた。このようなシーンは、脚本として読まされたならば、わざとらしいとしか思えないかもしれないのだが、全体としては緩めの演出のなかで、驚くような新鮮さを得ている。
巡礼者たちはその道中で、エピソードによって、現代から中世まで、大きな幅をもった時間のなかをルーズに行き来する。このルーズな行き来を自然なものとしているのは、巡礼者たちの「貧しい身なり」の普遍性(どんな時代にいても「貧しい身なり」はそんなに違和感がない)と、ヨーロッパの都市が、今でも、何百年前に建てられたような建築物を普通に内包しているという事実によっているだろう。何百年も前の人物がいきなりあらわれることを可能にするのは、そうなっても不思議はないと思わせるような舞台(環境)が、現実にあるからなのだろう。
(ブニュエルにあるような、歴史的記憶や宗教的教養=抑圧の厚みは、例えばリンチにはない。リンチにある記憶は、多少はアート的なものも含むとはいえ、おおむねアメリカの大衆文化の記憶に限られている。『銀河』に出て来るような、芳醇な生ハムや、キリストの血であり肉でもあるワインやパンなどは出てこなくて、せいぜいが、甘過ぎるチェリー・パイか、ファミレスのコーヒーがあるくらいだ。ブニュエルの余裕げな自由闊達さと、リンチの余裕のない強迫性との違いは、このあたりにも原因があるのかもしれない。)
巡礼者たちが、フランスから国境を越えてスペインに入ったところと、目的地であるサンチャゴについたところで、この映画の演出としては異質な「主観的なショット」が何故か唐突にあらわれるのにもハッとさせられる。別にこの主観的なショットにそんなに深い意味があるわけではないのだろうけど、(便宜上「主観的なショット」というけど、むしろ「非人称的なショット」といった方が適当かもしれない。)こういう細かい新鮮さこそが、この映画のルーズな進行を支えているように思う。そういうばワンカットだけ、走る自動車の窓からのトラベリングのカットが、これも唐突に(というか、映画の「次のカット」は常に唐突にやってくるのだけど)あらわれて、これにもハッとさせられた。
とはいえ、この映画の面白さは、基本的には、一つ一つのエピソードの「説話」の次元での面白さなのかもしれない。(「映画」としての面白さよりも、「説話」としての面白さの方が優先されているのかもしれない。)真面目な修道女が、男に誘惑されて修道院を去ったが、何年もしてから悔い改めて帰って来ると、修道院の仲間は彼女がずっとそこで働いていたかのように接してくる。彼女が不在の間、マリア様が彼女に替わってお勤めを果たしていたのだ。などというエピソードは、「映画」を越えて面白いものだと思う。(このエピソードには「映像」がなくて、司祭によって言葉で語られる。)キリスト教に対して、余裕げではあっても、シニカルで挑発的な姿勢をもつこの映画でのブニュエルも、このエピソードは「うつくしもの」として扱っているように感じられる。
(高級そうなレストランで、そこの支配人のような人物と給仕とが、店の仕事をこなしつつもキリスト教談義をしているエピソードをみると、ゴダールがやってることも、結局こういうことだよなあ、とも思った。)