07/12/15

●散歩の途中で雨に降られた。空は明るかったので通り雨ですぐにやむだろうと思って、ちょうどさしかかった公園の駐車場の木陰で雨宿りする。空は青く、傾きかけた日が射して、目の前は日向であるのに、雨はどんどん強くなってくる。雨が防ぎきれなくなって、少しずつ、葉が密度濃く繁っている木の下へと移動する(地面を見て、なるたけ濡れていないところを探して、そこへ移動する)。はじめは、距離をおいてバラバラに雨宿りしていた人々が、皆、濃い茂みの木の下を求めて、少しずつあつまって、次第に一ヶ所にかたまるようになる。傾きを増す日の光はさらに強くなり、駐車場のアスファルトや、向こう側の木々には眩しい光が射しているのに、雨は増々ひどい降りになって、雨粒にきらきらと光が当たっているという、何とも非現実的な風景を眺める。なかなかあがる気配がみられないので、しびれを切らして雨のなかに走って出て行く人もちらほらいる。
雨にでも降られないかぎり、散歩をしていても、一ヶ所に立ち止まってそこの光の推移を十分も二十分も眺めているということは、なかなかない。それを考えると、スケッチするという行為の重要さに思い至る。スケッチをすることによって、飽きることなく、同じ風景を長時間眺めていられるだろう。本来画家とは、そのようにして一日の大半の時間を過ごすべき者のことなのだろう。そのようにして受け取られた感覚の全てを作品として表現することなど出来るはずもなく、画家は多くの感覚の記憶を、自身の身体に蓄積したまま、そのような毎日を繰り返し、老いて死んでゆく。とかいう物語は、あまりにも単純に美化されすぎてはいるのだが。(実際にはそんなに「幸福な」画家はそうそういないだろう。)
随分と長く雨のあがるのを待っていたような気がするのだが、実際は、せいぜい二十分かそこらで、長くても三十分は経っていないだろう。そのくらい人は、ただぼけっと突っ立っている事が苦手なのだ。かなり小雨になってきて、雨宿りしているのはぼくと、一組の爺さん婆さんだけになったのだが、ここまで待って中途半端に濡れるのは嫌なので、さらに粘って立っていた。
雨があがって歩き出す。濡れた地面が傾いた日の光でぎらぎらして眩しい。雨で埃が流されたせいか、空気が澄んで遠くの方までがくっきりと見え過ぎて、遠近感がおかしい(遠くの風景が手前の方にぐっと迫ってくる)。雲間から帯状になって光が射しているのが見える。