07/12/16

シュヴァンクマイエルは、まず『ファウスト』を観てけっこう面白くて、次に『オテサーネク』を観たのだがこれが全然駄目で(多分この人は物語を語り出そうとすると駄目なのではないだろうか)、途中まで観てやめた後、再びつづきを観る気がしなくて、そのまま返却して、その時にまた借りてきた『アリス』はすごく面白かった。
多分この人は典型的なシュールへレリスムの人で、シュールレアリスムというとまず最初に「手術台の上でなんとかとなんとかが出会う」みたいな異質なイメージの出会いの意外性みたいなことを言われるけど、それは一面にしか過ぎなくて、本質的には、イメージが自動的に産出され、自動的に作動してゆくメカニズムを捉えようとするところに特徴があると思う。イメージの豊かさとか、異質なイメージの出会いとかとはまったく無縁であるように思われるデュシャンが、しかし幾分かはシュールレアリストであるというのは、メカニズムへの興味が共通しているからだろう。ただ、シュールレアリスムは、そのメカニズムのひとかたまりとしてある機械が、その総体として一つの母性的なイメージ(つまりその内部に豊かなイメージが孕まれる全体)としてあらわれるのだが、デュシャンにとってはメカニズムの総体もまた、単にメカニズムに過ぎなくなて、それは人間味を帯びない。(ダダイズム未来派人間性の「否定」という主張になるのだが、おそらくデュシャンはただ人間に対して「無関心」なのだと思われる。)
デュシャンルーセルのメカニズムは、膨らみを持たないメカニズムそのものであるのだけど、シュヴァンクマイエルのメカニズムを構成するイメージはある含み(記憶)をもち、ふっくらとした膨らみを持つ。イメージが膨らみをもつというのはつまり、メカニズムがなにかの隠喩となっているということだろう。メカニズムが隠喩となることで、他者に対する表現性が生まれる。しかしそれがあくまでメカニズムに留まり「物語」とならないのだから、その分だけ非人間的であり、つまりおそらく、非人間性の(人間的な)比喩になっているのだろう。
シュヴァンクマイエルは、実写とアニメーションを組み合わせるのだが、アニメーションを実写に近づけるのではなく、実写をアニメーションに近づける。人形が人間化するのではなくて、人間が人形化する。(『オテサーネク』が面白くないのは、物語を語っているということだけでなく、実写率が高いということにも原因があると思われる。)それによって人間が(イメージの連鎖によってかたちづくられる)メカニズムの一部にすんなりと溶け込むことができる。そこで人間は人形化(非人間化)されるのだけど、それ自体は自動的(非人間的)に作動する「連鎖のメカニズム」によって産出されるイメージの一つ一つは、微妙に人間的な記憶と繋がっていて、つまりその世界が世界全体として人間化されているのだろう。世界は人間とは無関係に自動的に進行するが、その世界の全体は、どこか人間味がある。そこでは生臭い人間的感情は蒸発しつつも、あたたかな(時にえぐくもある)手触りだけは残っている。
(『ファウスト』を観ていて、ぼくは最近の黒沢清を連想した。最近の黒沢映画の過剰な視覚性は、案外人形アニメの世界に近づいているのではないだろうか。もし『LOFT』で中谷美紀のうつくしい顔を捉える充実したショットがなかったら、『叫』で、作家本人を思わせる実存の重みと疲労を刻み付ける役所広司の存在がなかったら、その世界はかなり人形アニメに近くなるのではないか。実際、『LOFT』の安達祐実『叫』葉月里緒菜は、ほとんど人形のように扱われてはいなかっただろうか。)
『アリス』が他と比べて特に面白いのは、常に縮尺が狂っている感じがあるからだと思う。アリスの物語とはつまり、アリスの縮尺がかわる話なのだが、アリスの大きさが特にかわってない時でも、(実写の人間の少女によって演じられる)アリスと、(人形によって演じられる)ウサギやカエルやイモムシといったその他の登場人物(?)との大きさの関係が、カットがかわる度に微妙にズレていっているように感じられるのだ。(これはおそらく、背景となる模型と人間=アリスの関係をみせるカットと、背景の模型と人形=ウサギとの関係をみせるカットとを関係づけるための縮尺関係を、それほど精密には設計していないせいだと思われる。だがこれは、意図的になされているのだろうと思う。)つまり、アリスとウサギの大きさの関係が揺らぐので、ウサギが実際にどのくらいの大きさなのかが、最後までよく分からないのだ。カットがかわる度にパースペクティブが混乱するので、空間の全体というか、空間の基準が想定出来ない。次にどのようなイメージが出てくるのか、どのような展開があるのかが予測出来ないのではなく(展開そのものは、アリスの話なので、ある程度は想定できてしまう)、そのイメージを生じさせ、展開を支える基底となる空間そのものが、次のカットでどうなってしまうのか(どのように歪むのか)が分からないのだ。空間の基準が掴めないことの不安定さが最後までつづくからこそ、常に先の展開が驚きであり、予断を許さないものとなる。(『ファウスト』では、人間と人形の大きさの関係は割合安定していて、人形が実際に「どのくらいの大きさ」なのか分かってしまうので、空間的には『アリス』ほど複雑ではない。)
ファウスト』には、人形を操作する「手」が、『アリス』には、この物語を語っている「口」が、何度も繰り返し示されていた。こういうのを安易に「メタ」な視点としてみてしまうのは間違いだと思う。むしろこのイメージは、これ以上の先(外)はない、と、「メタ(超越的)」な視点に蓋をするものであるように思う。アリスが主人公である物語を語っているのがアリスの「口」であるとするならば、この世界にそれよりも外はないし、入り口も出口もないことになる。(これは『ロスト・ハイウェイ』で、「ディック・ロラントは死んだ」という言葉を、言うのも、聞くのも、同じ人物であることと似ている。)そこにあるメカニズムを測るためには、そのメカニズムの外の基準は使えないのだ、と、その「口」は示している。