東京都現代美術館へ。
常設展は、岡崎乾二郎すげーっ、という言葉しかない。とはいえ、ペインティング(ペインティングと言っていいのかわからないけど)の仕事は、ほとんどの作品が既に観ているものなので、すごいけど、すごいのはわかってるよ、という感じでもあるのだが、驚いたのは、ゲント現代美術館のインスタレーションを再現した部屋。これはまさに、ぼくはこういう作品をつくりたいんだ、というような作品なのだった。これから、いろいろがんばってなんとかこんな作品を実現したい、というような作品が、既に二十年前に、しかもこんなに高度なものとして達成されていたのだとすると、今後いったい、ぼくはなにを目指せばいいとのいうのか。画家としてのぼくに、まだなにかが出来る余地が残っているのだろうか。この部屋に入ったとたんに、いきなりボコボコに殴られて、立ち上がれなくなってしまった感じなのだった。これは大げさに言っているのではなく、かなり深刻。あと、広いアトリエはぜったい必要だなと思った。しかし、今の状況では広いスペースを借りる余裕はどう考えてもどこにもないのだが。
半透明の紙にパステルで描かれたドローイング(線)は、それだけでマティスの最も充実した作品に匹敵するほどのものだと思うけど、それが、その前に置かれている構築物---金属とFRPによって物質化された平面が組み立てられて立体化され、そして色彩をもったもの---と反映し合うことで、二次元でも三次元でもない別の次元を出現させる。二次元のなかでの色彩をもった線がつくりだす関係-構築性と、三次元のなかで色彩と質感をもった平面がつくりだす関係-構築性との反響が、四次元のなかで色彩や質感をもった複数の三次元(空間、時間)の関係-構築性を予感させる、というのか。とにかくすごい。
レベッカ・ホルンも、思いの外面白かった。デュシャンシュールレアリズムのあり得ない結婚、というような作品だと思った。デュシャンは、基本的に質感とメカニズムの人で、メタファーがない(デュシャンを隠喩的に読むほど空虚なことはない)。一般的なシュールレアリスムの作品は、メタファーとメカニズムで出来ていて、質感が弱い。レベッカ・ホルンの作品は、メタファーとメカニズムと質感への鋭敏さによって成り立っていて、それによってデュシャンシュールレアリスムの感触が結びつく。
ただ、デュシャンともシュールレアリスムとも異なるのは、その作品のもつ、美術作品としては特異な時間性にあると思う。それは「動く」のだが、いつ動くのか分からないし、動いている時よりも止まっている時間の方が長い。常に動いているわけでもなく、例えばティンゲリーみたいに、「さあ動かしますよ」と言ってスイッチを入れて動くのでもない。つまり、ずっと沈黙していて、いきなり気まぐれに動き出す(自閉症的ディレイドエコラリア)。その特異な時間性が、周囲の環境との隔絶を感じさせ、作品につよい(自律的というよりも)自閉的な感触を与える。それは世界と切り離されて、それ自身として閉じている。この感触が、メタファーというもののもつ、母性的とも言うべき豊かな相互関連の感触を抑制的に押し返し、さらに鋭角的で冷たい質感とあいまって、自閉的で硬質なメカニズムの作動そのものを浮き立たせる。この感触は、レーモン・ルーセルの作品に近いかもしれない。しかし、鴉の羽、蝶のはばたき、あるいは、牡蛎の貝殻のなかの鉄の玉、銃など(そして柔らかくて軽いものと堅くて冷たいものの微妙な接触感)は、あきらかにそこに隠喩的な含みをもって使われていて、そこにはかすかな他者へ向けての呼びかけの声が響いている。だから、デュシャンルーセルほどきっぱりと自閉的、自律的なメカニズムそのものの提示があるのではなく、抑制的に切り詰められた隠喩の匂いが作品の入り口となり、観客はそこに「作者」の存在の気配をみつけることが出来る。
●しかし何故か映像の作品になると、この硬質で自閉的なメカニズムが後退して、すごく「ゆるーい」感じになるのが不思議だった。しかしデュシャン的なものともシュールレアリズム的なものとも異なった緩さは、けっこう悪くないんじゃないかと思った。ここでは自律的なメカニズムをもつ機械がユーモアを付与され、人間的なものに近づいているようなのだ。そして美術作品の感触からは意外ないことなのだが、周囲の空間や風景に対して開かれている感じなのだ。長い作品が多いので、『ダンス・パートナー』と『ラ・フェルディナンダ』、そして『バスターの寝室』の最後の四十分くらいしか観られなかったけど、『ラ・フェルディナンダ』は冗長すぎるように思われたけど、『ダンス・パートナー』は映画としてもけっこう面白いんじゃないかと思った。『バスターの寝室』は、黒沢清の『ドッペルゲンガー』の元ネタみたいな映画だった。
●午前十一時くらいに着いて、閉館時間近くまでいたのだけど、ファッションの欲望展は時間がなくて三十分くらいで流して観ることになってしまったけど、これももっとじっくり観たら面白そうだった。とにかく、東京都現代美術館が出来てから、美術館全体としてこんなに充実しているのははじめてなのではないかと思った。