タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』をビデオで観ていた。例えば、構図の中心に常にある人の顔があって、その人物がカメラに近寄ったり離れたりしつつ横に移動して、それをずっとカメラが追いかけているのだが、そこで撮られているのは人物というよりその時に背景に映り込む空間の方で、人物(の動き)は、映画敵な空間の継起的展開を導くものとしてある、というような撮り方をタルコフスキーはよくするのだが、それは『ノスタルジア』くらいになると完全に誰が観てもタルコフスキーのスタイルと分かるものになっているけど、『アンドレイ・ルブリョフ』ではまだそこまでかっちりとスタイルという感じにまでなっていなくて、でも、だからこそむしろ、タルコフスキーの空間のとらえ方の感触が、この映画ではより生々しく感じられる。
一見、普通に撮っているようで時間の処理などもすごく不思議で、例えばアンドレイたちの一行が芸人たちの一座と同じ小屋で雨宿りしていると、芸人の一人が憲兵みたいな人たちに捉えられてしまうという場面で、憲兵が小屋までやって来て戸口に立つところを外から撮っている時まで雨が降っているのだが、カットがかわって、戸口に立つ憲兵を小屋の内側から捉えるカットになると光がいきなり違って、捉えられる芸人に当たる光はあきらかに晴れた日の光で、実際、芸人が外に連れ出されるのを小屋の内側から戸口に向けて撮っているカットでは、外ははっきりと晴れている。カメラが室内に入ったとたんに、外の世界の有り様が一瞬でガラッとかわってしまう。あたかも、少し前に既に雨が上がっていたかのような感じになる。この、時間がぶれるようなモンタージュで、雨宿りの場面の時間の経過の仕方がとても不思議な感じになる。
アンドレイが異教徒たちの乱交のような祭りに行き当たる場面で、アンドレイは遠くの松明の光に誘われるようにそこ場へと導かれるのだが、その、松明が画面のフレームの隅にあらわれ、何か予感のような感触が浮かび、松明が次第に増えて、アンドレイがふらふらと導かれて行く、その画面の連鎖が、徴候が発生し、ざわめき、流れてゆき、その「流れるもの」たちに対するアンドレイの動きの緩慢さの対比、そして徴候が増殖してゆく感触などを、すごく濃厚にあらわし、捉えていて、おー、すげえ、と思った。
この映画は三時間以上あって、正直、ちょっと退屈だと思える場面も少なくないのだが(川の撮り方が素晴らしいのに、それ以外の水の使い方がわざとらし過ぎるところとか、いかにもタルコフスキーだなあと思ったりもする)、しかし、タルコフリスキーの映画作家としての力量が(いわゆるタルコフスキーのスタイルとして確立し切っていないからこそ実現されるような、素の力量のようなものが)最高のレベルで発揮されている場面がいくつもあって、たいへんに魅力的だった。とはいえ、この映画で最も素晴らしい場面は、冒頭の気球での飛行の場面だと思う。この場面のリアルさは、なんといっても絶妙な高度にあるのだと思う。ちょうど、飛んでいる夢を見ている時の高さ。
しかし、画家の話なのに、映画としてのクライマックスは、鐘をつくる場面なのだった。