2022/04/11

ブレッソンの『白夜』は、ブルーレイでソフトが発売されているがその値段はとんでもなく高騰してしまっている。しかし、YouTubeでなら英語字幕付きで観ることができてしまう。

『白夜』はブレッソンの映画としては例外的に口当たりがよい。若い男女の恋愛の話だし(男女とも容姿に優れている)、セーヌ河岸の夜景の撮影がとんでもなく美しいし、すばらしい音楽がとても叙情的に使われる。特に音楽の使い方の絶妙さに驚くとともに戸惑う。ブレッソンの映画がこんなに甘く叙情的に音楽を使ってよいのだろうかと。おお、すごい、と思うと同時に、でもこれブレッソンの映画だけどこれで大丈夫?、と思う。

ぼくがこの映画で最も驚かされるのは、母親と二人暮らしのイザベル・ヴェンガルテンと空き部屋に下宿している学生との関係の推移を示す描写だ。それまで下宿人と一度も顔を合わせたことのないという娘が、下宿人が留学のために去ることになったその当日、いきなり下宿人の部屋に入り込んで自分を一緒に連れて行けと要求する。そして、次の瞬間にはもう二人は裸で抱き合っている。この唐突さが驚きなのだが、それだけでなく、唐突な展開にいたる過程の描写がとてもすばらしい。

二人の関係の描写は、下宿人が帰ってきた物音がするので娘がその姿を見ようと戸口に駆け寄るが、既に遅くて扉を閉める後ろ姿が見えるだけ、というところからはじまる。この後、カットが途切れるまで意味ありげなかなり長い間がおかれる。次に、テーブルに置かれた見慣れない本を見つけた娘が、母にこれは何かと訪ねると、母は下宿人に借りたと言う。答えが返ってくるまでの間、娘は熱心にそれを読んでいる。

次の場面がとても独創的だ。下宿人がエレベーターのボタンを押すが扉は開かない。下宿人はあきらめたのか階段を上る。次の階でもボタンを押す。エレベーターが動いている音がするが、扉は開かない。下宿人はかがみ込んで、扉越しに、エレベーターのなかにいるらしい娘に、今夜映画を観にいかないかと誘う。娘は答えない。下宿人は再び下の階に階段で降りて、今度は扉の上の方に向けて語りかける。エレベーターの移動音だけして、娘は答えない。下宿人はまた階段を上る。次のカットでは、エレベーターを降りたらしい娘がアパートの外に出て行くところを俯瞰で捉えている。かなり不思議な演出。下宿人から娘へのアプローチが示されるが、二人の対面は徹底して避けられる。

テーブルに、映画のプレミア上映会の招待状。これもまた下宿人からのものだ。娘は「下宿人も行くのか」と母に聞くが、彼は行かないと母は答える。娘は母と二人で映画を見に行くのだが(このプレミア上映会の描写もかなり変)、ここで驚くべきことに、ブレッソンがつくったであろう「映画内映画」が、けっこう長めに示される。アクション+銃撃戦の紋切り型の場面が、ブレッソン風の演出とモンタージュで作られている(すごく不思議だ)。二人は映画の途中で退出する。

そしてさらに独創的な場面の連鎖がくる。夜、部屋のなかでラジオから官能的な音楽が流れるなか、娘は裸になり自分の裸体を鏡に映して、うっとりとした目でそれを見る。すると、壁を隔てた隣の下宿人の部屋から、コン、コン、コン、と壁を叩く音が聞こえてくる(『ユリイカ』だ)。娘は壁に耳をあてる。次のカットは、壁を叩く下宿人の手だ。下宿人は壁を叩いた後、ゆっくりと上衣を脱ぐ。再びカメラは娘の部屋に戻ると、娘は薄い寝間着のようなものを着ている。ドアのノブに手をかけ部屋の外に出た娘は、下宿人の部屋のドアの前に立ち、鍵穴から中を覗こうとする。その途端、扉の下から漏れていた灯りが消え、娘はびくっとして、急いで部屋に戻る。扉を閉め、灯りを消す。すると今度は下宿人が部屋から出てきて、娘の扉の前にたつ。真っ暗ななかで、扉を挟んで向かい合うように立つ二人。下宿人は娘の部屋のドアノブに手をかけようとするが、そのまま立ち去る。

この場面の後に、唐突な急接近があるのだが、扉を開けて、背を向けている下宿人に向かって「わたしも連れて行って」と言う娘は、その時点では下宿人の顔さえ見たことがないのだ。直後、いきなり裸で抱き合う二人の部屋の外では、娘の名を呼びながら苛立たしげに歩き回る母の靴音が響いている。

この一連の場面が示すのは、二人が直接的には出会うことなく、完全に隔たったままで、しかし同時に、少しずつ距離を近づけていく様だと言える。けっして出会うことのないまま、ポテンシャルがマックスにまで高まった時に、不意に衝突するように出会う。ブレッソンにとってのリアルな出会いはこちらの方にあって、この映画の主線とも言える、ギョーム・デ・フォレとイザベル・ヴェンガルテンによる恋愛物語風の(口当たりがよい)の展開は、結局はこの出会いの強さに勝てないということではないか。