⚫︎『同志アナスタシア』を観直してから、改めてもう一度『ザ・ミソジニー』(高橋洋)を観た。これはある意味、(1)「母を殺したのは娘」説(主に河野和美によって担われる)と、(2)「母は組織の生贄にされた」説(主に中原翔子によって担われる)の間の抗争があり、あるいは、(1)から(2)への移行があって、そこから(3)「二人の女の共闘」へと転調した後、最後には、(4)「母を消したのは森の不思議な存在だった」説に落ち着く、という話でもあるのだなあ、と。
正確には、(2)から(3)への移行の前に、「前の儀式は失敗した」→「次の生贄として河野が召喚された」→「儀式実行の直前に中原がスパイとされた」という展開(転調)があるのだが。ここで一旦、「前の儀式の生贄」が「母」である根拠はなくなり「母・娘」間の呪いの連鎖の主題は無化される。しかし、(4)の段階で再び「母・娘」間の呪いの主題が回帰する。ただ、ここで呪いは軽減化され、河野と中原の間で、役割を交代させながら共有可能なものになっていた。
母を消したのは、母と娘という近親間の呪いでもなく、「神秘に始まり政治に終わる」かのような組織による陰謀でもなく、また「女はみんな地獄に落ちる」「流した血に埋もれて蛇になる(うろ覚え…)」といったミソジニー的な世界の掟(法)でもなく、なんとも掴みどころのない超自然的な存在で、ここではあらゆる根拠(トラウマ・因果・法)がはしごを外されたように取っ払われて、ただ「母が消えた」という事実(と、その「こだま」としての叫び声と足音の反復)だけがポツンと宙に浮いたように残される。
この事実(根拠の消失)に対して、残された二人の「娘」は、ポカンとしつつ、ただ消えた母(のこだま)に向かって手を振ることくらいしかできない。
映画の途中で、子供時代の河野和美が世話係であるかのような横井翔二郎に「わたしはすごく悪いことをしているの」と、何かを告白している場面(これが、中原翔子によって書かれた場面なのか、河野和美の過去の回想なのか、それとも河野の妄想・幻覚・夢であるのか判然としないのだが)があるが、ここで河野が横井に告白した「罪(すごく悪いこと)」とはおそらく、森の不思議な存在との何かしらの交流なのだろう。
(この前の場面で、子供時代と思われる河野が藁人形を森に埋めている。)
この、不定形な「不思議な存在」との交流が、母と娘の呪い、陰謀論、ミソジニー的な世界の掟(これらはどれも、無限反復する地獄に通じる)が作り出す連鎖から逃れ、いわば輪廻からの解脱の契機を作り出すのではないか。もちろん、この「森の不思議な存在」がポジティブなものとは限らない。というか、ポジティブとかネガテイブとかいう価値観が存在しない「外」にある何かのことだろう。