2024/02/05

⚫︎お知らせ。1月20日に行われた、連続講演第一回「未だ十分に語られていないマティスピカソについて」のアーカイブ動画が完成しました。販売しているので興味のある方は是非。

dr-holiday-lab.stores.jp

下の画像のように、講演の動画と、そこで話されているスライドが、上下に並んで同時に見られるようになっているので、見やすいと思います。

連続講演の第二回「「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する」のチケットは、2月10日頃から発売する予定です。

inunosenakaza.com

⚫︎『アリスとテレスのまぼろし工場』を、母と娘の話として、もう少し考えてみる。まず、母は、永遠に14歳でいるしかない世界に閉じ込められている。彼女は、ここから出ることはできないし、成長することもできない。このまま、このようにあり続けるか、消えるかしかない。ただ、このまぼろし世界の外には現実世界があり、そこには現実の彼女が存在する。現実世界の彼女は、成長し、やがて同級生だった男と結婚し、娘が生まれる。

ここには、二つの同時進行する世界がある。二つの世界は重なり合い、並行的に存在するが、互いに没交渉である。つまり、この二人の母親は同一人物であり、同じ人間でありながら互いに閉ざされていて、自分のもう一方の側面にはアクセスできない。あえて凡庸な解釈をするならば、まぼろし世界は、現実世界にいる母親の、自分自身でさえアクセスできない奥深い領域に存在する。

(さらに凡庸に、精神分析的に言えば、無意識には時間がない。)

この、自分自身でさえアクセスできないまぼろしの領域に、ほとんど獣のような他者として、現実の娘が侵入してくる。現実の娘という存在が、母のまぼろし世界そのものの存立を揺るがす。

まぼろし世界の、未だ母ではない母としての彼女は、まだセックスもしていないというだけでなく、互いの感情を確認しあったわけですらない男の子供と、理不尽にも直面することになる。彼女は、男との付き合いも、セックスも知らないままで、ただ未来(現実)から一方的に責任を押し付けられるかのように(あるいは、未来・現実から突きつけられた罰であるかのように)、娘に向き合い、娘の世話をすることを強いられる。娘の誕生・存在は、現実世界から没交渉であるはずのまぼろし世界まで波及するくらいに大きな出来事ということだろう。ただ、まぼろし世界においては、娘の父である男は、たんなる同級生であり、未だなんの関係もないまま、娘の存在も、現実世界の自分の将来も、知る由もなく生活している。

(実際、まぼろし世界から出られない彼女にとって、「将来の夫」が夫になる日は決して訪れることなく、どこまで行っても同級生のままでしかあり得ない。)

ここまでは、母の視点からのことだ。娘からすれば、現実世界で生まれたはずなのに、たまたま母が深い闇を宿している人物だったために、(母自身も無自覚なままにある)母の闇の世界に絡みとられ、巻き込まれて、理不尽にもそこに閉じ込められてしまう。娘にとってそこは、あくまで「母にとってのまぼろし世界」であって、自分自身のまぼろし世界ですらない。だからそこで娘は、閉じ込められたまま「成長して(歳を取って)」しまう。母にとっては永遠の停滞であっても、閉じ込められた娘にとっては現実の時間が流れていて、娘の時間は限られている。このようにして、母にとっても、娘にとっても、極めて理不尽な出会いが、まぼろし世界で生じることになる。

母は、娘との距離を測りかねるまま、ただ、最低限の世話だけをする。その間、娘は、だだ生きさせられているというだけで、たった一人で放置される。母は娘を憎んでいるわけではないが、本来ここにいるべきでない娘に必要以上に愛着を感じてしまうことを恐れている(自分は、ここから出て「母」になることは決してできないのだ)。娘も母を嫌いではないが、母の態度に対してどのように接すればいいのかわからない。ただ明らかなことは、娘は「成長する現実」なのだから、ずっとここに監禁し、放置しておくと娘の人生を無駄にしてしまうことになる。ではどうすればいいのか。

ここで、少しでも事態を動かすために母が思いついたのが、ずっと一人でしていた娘の世話を父にも分担させることだ。ただし、父は自分が父であることを知らない。彼もまた、未だ父でない(あるいは、決して父になり得ない)父であり、母とはまだ付き合ってさえいない。

母がこの時に狙って仕組んだというわけではないだろうが、それにより、娘はまぼろし世界の父に恋愛感情を抱くようになり、母・父・娘の三角関係が生まれ、それがエンジンとなり、娘は、母のまぼろし世界を大きく揺るがして、そこからの脱出の可能性を開く。そして母は、父への排他的恋愛感情によって、娘を抱きしめて、突き放すことができる。

⚫︎決して成長できないまぼろし世界の母にとって、現実世界の「未来の自分」から送られてくる「現実の娘」は理不尽な災厄であり、先取りして取らされる責任のようなものなのだが、同時に、未来のない自分にとっての「決して辿り着けない未来(現実)」の印でもあるだろう。ただし、未来は彼女たちのものではなく、現実世界のものであり、娘のものである。「娘の未来」を現実へと帰した後、まぼろし世界の住人たちは、未来を諦め、今、ここで立ち上がる「痛み」「感情の震え」「愛」「官能」のみを生の証とする。