2024/02/04

⚫︎岡田麿里、脚本、監督の『アリスとテレスのまぼろし工場』をNetflixで。アニメとしてのクオリティは素晴らしいが、お話として、どこに軸があるのか最後までよくわからなかったかなあ、と。

自然に受け取れば、すごく屈折した母と娘の関係の話なのだと思うし、その部分にこそ最も説得力があったと思う。だけど、話の中心にいるのは男の子で、そこで重心がブレてしまっている感じがした。一方で、消えてしまった父(そして、父の代理としての叔父)と息子(男の子)の話でもあるのだが、こちらは「いい話」風になっていて、普通といえば普通なので、もう一方の、とても特異な母と娘の関係の部分とのバランスが取れていない感じがした。

そもそも、昭和のまま時間が止まっていて、大人になることを禁じられた子供の時間がずっと反復され、かつ、それ自体が滅びつつあるという「閉ざされたまぼろしの世界」に、その外から「現実世界の子供(娘)」が侵入してくる(そして、娘はまぼろしの世界に監禁される)という、この異様な設定からして、(観終わってから事後的に考えれば、ということだが)母と娘の関係の屈折を描くためだけにあるようなものだろう。それなのに、それ以外の要素をいっぱい付け加え過ぎてわかりにくくなっているように思った。最後になってようやく、ああ、そうか、母と娘の話なのだなと納得するのだが、それまではずっと、これは一体なにをやろうとしているのか、と、疑問を持ったまま観ていた。

永遠に14歳であるまぼろし世界に住む(未だ母でない)母が、未来からやってきた「現実の娘」をまぼろしの中に監禁する(だが、監禁された娘は母とは違って「成長」する)という、何重にもひっくり返った入れ子状態のような異様な設定で、この部分だけを追求していたら傑作になったかもしれない。ただ、エンタメにはならないかもしれない。

母と娘の関係といっても、娘はほぼ「獣」のようなものなので、母から見た娘への行為と感情が主な問題となっていて、最後の最後になってようやく娘を外の世界へ突き放すように送り出すことができる。母は、恋愛において利己的になることで娘を突き放すことができる。そして、突き放すように送り出すことができることで初めて、娘と抱き合うことができる。この部分はとても説得力があるのだが、しかし、ここに辿り着くまでに主題とは違う要素へと遠回りのしすぎではないかと思った。

(娘に恋愛感情が生まれ、そこから嫉妬が生まれることで、監禁状態からの脱出の糸口が生まれるので、娘も完全に受動的だというわけではない。)

(最後には、父の代理であった叔父もまた、恋愛において利己的になって男の子を突き放す。)

恋愛において利己的(排他的)になる、ということも、この物語では重要な要素だ。この作品世界では、非常に強い恋愛至上主義が貫かれていて、時間が停滞する世界において唯一、恋愛のみが「生きる」ことを可能にしているかのような話になっている(「絵が上手くなる」という別の要素も辛うじてあるにはあるが)。この感じを受け入れられるかどうかで、この作品に対する印象が大きく変わるのではないかとも思った。これだと、昭和の親父のようなことを言う中学生男子は、彼らのまぼろし世界では「生きていない」ことになってしまうのではないか。

⚫︎設定だけを見ると、『ゼーガペイン』や『ラーゼフォン』を思い出すし、最近の作品では『永遠の831』なども想起されるのだが、観終わってみると、そもそも動機の部分でまったく異なる作品なのだな、と思う。