●『水死』(大江健三郎)を再読している。それにしても、小説は憶えられない。読んでいる時に確かに感じている感触や抵抗は、それから、三時間経ち、五時間経ち、八時間経つと、少しずつ薄れていってしまう。長い小説は、読んでいるうちに読み始めた頃のことを忘れている。小説はまるで夢のように憶えているのが難しい。しかし、夢の憶えられなさが、夢そのものと夢の記述との間に、何かしらの創造的な回路をひらく可能性がある(しかしそれを探るのはきわめて困難だが)ように、小説の憶えられなさこそが、記憶という粗い装置との相互作用のなかで、記憶の回路に新たな通路を開く可能性があるのではないか(それは記憶というより新たな記憶の創造であろう)。詳細な分析とは違った回路があるはずなのだ。
例えば、ラカンがセッションを短時間で強引に中断させるように、小説を「最後まで読まない」というのはどうだろうか(それなりに「完結した形」をもつ作品を最後まで読んでしまうと、読む側の記憶の装置もそれなりに解決−納得されてしまう)。不意に読むのを止めてしまうことで、確定されなる以前で放置された意味の徴候が、何かしらの別の回路を求めて動き出そうとする、その瞬間にこそチャンスがあるのではないか。