●『永久帰還装置』(神林長平)。なんかすごく普通だった。この超かっこいいタイトルから、もっとハードで思考実験的な性格の強い小説なのかと予想していたけど、きわめて常識的なエンターテイメント小説だと思った。決してつまらなくはないけど(つまらなかったら最後まで読まない)ちょっと拍子抜けした。いや、その「常識」は多分正しいのだろうけど。
麻耶雄嵩の『鴉』についての日記で、麻耶雄嵩は世界の設立を拒否するというようなことを書いたけど、『永久帰還装置』も出発点は麻耶雄嵩と近い位置にあると思うのだが、この小説の主眼は逆に、かりそめのものでしかない根拠のない世界やわたしから出発して、どのように世界を設立し、定着させ、根拠づけるのかというところにあると思う。そしてそれは、愛と労働を通じてなされる、と。恋人がいて、それなりに忙しくて充実した仕事があれば、世界とは何か、わたしとは何か、などといった問題に躓いてはいられない。その問題は消えることはないとしても、それは夜の問題として背後へと退け、昼間の、生産と交換と労働の場に生の主眼を置き「現実」を設立すべきだ、と。他者たちとの相互承認と、何かしらの充実した実践(と、かすかなノスタルジー)によって、世界は設立され、定着され、根拠づけられる、と。世界は、その根拠は、あらかじめあるのではなく、(猫のサヴァニンのように)相互承認と社会的実践によって事後的に創造されるのだ、と。それはまったく正しいと思う。確かに正しいのだが…。
あくまで世界の設立の手前に留まろうとする『夏と冬の奏鳴曲』や『鴉』は病的とも言えるのだが、その感触に留まることによって作品に一定の密度と強さが生まれていると思う。でもこの小説では、小説の記述そのものによって世界が(再)設立されるというよりも、世界の設立が物語として語られる(説明される)という感じがどうしてもしてしまう。前半の、世界の根拠の無さが記述される部分には密度があると思うのだが、後半の、世界の(再)設立の部分がどこか、突っ込みが足りない、というのか、普通だなー、と感じられてしまう。
提出された主題が十分に展開しきれていないと感じるのは、例えば、永久追跡刑事とボルダーとの関係は明らかに相互補完的で不可分なもので、その永遠の追いかけっこは、この世界より高次のものであるというより、この世界を発動させる、いわば世界の設立と破壊の基底となる(つまり世界の下にある)原理というか運動のようなものとして小説の前半では提出されるのだが、後半ではボルダーが普通の悪役になってしまっているというところにも表れている。
まあ、超越的な存在である永久追跡刑事が、かりそめのものでしかない「この世界」のなかで、固有の身体をもった人間(レンカク)へと定着されてゆくという話でもあるのだから、一方が人間化すれば、他方もそれに合わせて普通の悪役へと縮減されるのは必然かもしれないけど。でも、そうなると、この世界の根拠そのものと戦っているはずだったのに、普通の、黒幕は誰だ的な陰謀論みたいな話になってしまう。あと、マグザットという不気味な人工知能が、割と簡単に天才的な技術者に敗れてしまうというのにも拍子抜け感があった。結局、マグザットは主人公にとって都合よく使われる道具でしかなかった、みたいな。
とはいえ、エンターテイメントというのは、常識的な地点に着地することが、責任のような枷としてあるとも言えるので、そこに文句をつけるのは言い掛かりみたいなことでもあるかもしれないのだけど。
要するに、最初に提示される非常にハードルの高い設定と、後半に展開される常識的で「正しい」展開との間のつながりに、あまり必然性が感じられない、と、最初に起動された問題(あるいは期待)とは別の方向へ行ってしまっている、前半を読んでいる時に期待値が上がり過ぎた、という感じなのかも。後半を読んでいるうちに薄れてしまったけど、前半はかなり興奮して読んでいたのだ(と、書いているうちに思い出してきた)。前半(というかレンカクが脱出する前まで)だけをもう一度読み直せば、もっと面白いところがいろいろ見えて(頭に残って)くるのかもしれない。世界とわたしとが同時にたちあがってゆく感触が、レンカクとケイ・ミンという二重の視点から描かれることで、、その感触が二重化される(一方では焦点化され、もう一方では焦点がブレる)感じ、とか。