●青山ブックセンター本店に平倉圭の『ゴダール・ソシアリスム』に関するレクチャーを聞きに行く。このレクチャーの案内のメールがインスクリプトの編集の中村さんから届いたのが前日の夜で、そのメールをぼくが開いたのは当日の昼過ぎで、今日は一日がっつり制作しようと決めていて心はすっかりそっちに向いてたし、『ゴダール的方法』は買ってはあるけどまだ全然読んでないし、なのだが、そのメールの文面から、今日は絶対すごいことが起こるぞ、という雰囲気が濃厚に感じられたので、出かけてみることにした。
で、でかけて本当によかった。無茶苦茶面白かった。平倉さんのレクチャーは何度が聞きに行ったことがあって、いつもたいへん面白いのだが、今日のはその中でも特に素晴らしかった。レクチャーの内容については、当然今後、平倉さんによって何らかの形で発表されるのだろうから詳しいことは書かないけど(「この事実は、ゴダール以外は世界じゅうで今日ここにいる人しか知らないはずです」とか言ってたし)、「昨日の夜思いついた」という着想の、そのナマの形に近い最初の発表の場に居合わせることができたのはたいへんに幸運だった。
『ゴダール・ソシアリスム』は映画館で観るようにはつくられていない、特に音に関してはヘッドフォンという環境で聴かれるべきだ、という話で、言われてみれば、なんでそんなこと気づかなかったのか、というくらい明らかで、この手の話にありがちな「言葉で言いくるめる」というものではなく、とても具体的で説得力がある。「フラットデッキ」とか「革命的閉鎖性」という言葉もかっこいい。
ただ、最後の質問にもあったけど、「2」と「群れ(3以上)」というのは、そう簡単に連続性のなかにあると考えてよいのかという疑問はなんとなく残った。「2」の増殖と「群れ」とをつなぐには、何かしらの手続きが必要ではないか、と。たとえば人間の耳が二つで済むのは、右の耳と左の耳との聞こえ方の違いから、脳が立体的な音のひろがりを構成するからだと思うのだが、そのような構成=統合を拒否するようなミキシングが行われていて、それをヘッドフォンという環境で聴くとなると、そこには「耳が二つしかない」という身体の基底的な条件がかえって強く前景化してしまうように思われる。それはあくまで、右の耳と左の耳という「2」への分裂ではあっても、「3」にはならない。「3」があるとすれば、それは脳によって既に構成=統合が起こっている(統合的にミキシングされている)ということになるのではないだろうか。『ゴダール・ソシアリスム』のミキシングがヘッドフォンに最適化されているということは、「3」ではなくて「2」が強調されているということなのではないか、と。まあ、右の耳と左の耳と目があるから「3」だ、ということも言えるけど。
「2」というのは危険な数字だから、特にそこに注目することは避けたかったということもあるのかもしれない。
私は、私1と私2とを統合できない、と言う時は、私1=右耳、私2=左耳と言えるけど、私は、私1と私2と私3とを統合できない、と言うとすると、私は、「私1として統合された何か」と「私2として統合された何か」と「私3として統合された何か」を統合できない、という風になって、私以前に、私とは別の無数の「統合」が働いている、ということになって、それがフラットデッキだ、ということなのかも。