●『ペドロ・パラモ』は、コマラという土地の死者たちの声が響く小説だ。だから、余所からコマラを訪れたフアン・プレシアドの出来ることは、ただ死者たちの声に耳を傾けることだけとなる。ただし、この小説にはもう一人、余所からコマラへやってくる人物がいる。スサナ・サン・ファンだ。スサナは三十年前にはコマラに住んでいて、幼少時のペドロ・パラモの憧憬の対象だった。だが程なくコマラを去り、その後も彼女に執着するペドロが、三十年も彼女の行方を探し続けて、ついに発見し、スサナの父(バルトロメ)に働きかけることでコマラに呼び戻すことになる。つまり、フアンは母(たち)に導かれてコマラに幽閉されるのだが、スサナは(この小説において象徴的な)「父」によってコマラに連れてこられる。
そして、フアンと同様にスサナもまた、コマラでは何もしない。ただ、フアンがひたすらコマラの死者たちの声を聞くのに対して、スサナは誰の声も聞こうとしない。彼女は、他者の過去・記憶(幽霊)に縛られるのではなく、自身の過去・記憶に縛られている。スサナは、今ここではなく、過去からやってくる回想や夢のなかで生きているという意味で、生前から既に幽霊であり、(むごいことに)死後もそのまま、同じ過去や夢に苦しめられる。コマラに住み、死後はコマラに埋葬されるが、スサナはコマラにはいないと言ってもいいだろう。ファンが、中身が空洞であることで他者たちの声を響かせる装置=人物だとしたら、スサナは、中身が充実しすぎているが故に「外」への関心を失った、ただ自身の内側の密度を生きる人物と言える。
スサナを支配する過去や夢は、まず、亡くなった夫(フロレンシオ)との激しい性愛の官能と、その夫を失ったことの苦しみだ。彼女は絶大な強度をもって回帰してくる過去の官能と苦痛に刺し貫かれていて、現在に対する興味のいっさいを失っている。また、現在への嫌悪の理由として、父(バルトロメ)への嫌悪もあるだろう(父からの性的な行為の強要がほのめかされている)。
コマラの支配者であり、膨大な力をもつペドロでも、事実上「コマラ」にも「現在」にも存在しないスサナに対しては、何の助けも与えられない。記憶や夢の回帰に耐えるようにベッドでのたうっているスサナを見守るだけだ。そして、しばらくするとスサナは死んでしまう。コマラや、近隣の街に大きな影響力をもつペドロも、「コマラ(現在)の内に持ち込まれたコマラ(現在)の外」に対して何も力を及ぼせない。
また、欲しいものは何でも手に入るようにみえるペドロが、スサナというたった一人の女性への執着を捨てきれないのもまた、彼女と過ごした幼少期の記憶(幸福)があまりに強くなまなましいからだろう。ペドロもまた、強すぎる過去の回帰によって、「(もはや、今、ここ、にはいない)現在ではなく過去に生きる女性」への執着から逃れられない。
過去への執着にとらわれ、コマラという土地にとらわれて、嘆きつづける幽霊たちと同様に、スサナもまた死後も嘆きつづける。そして、血も涙もないようにみえる暴君のペドロでさえ、過去からは自由ではなく、過去(=スサナ)を前にして自らの「無力」を味わう。
●だが、ペドロは、あたかも彼が解脱したかのように、死後の嘆きがない。死ぬと、《石ころのように崩れ》て消えるのだ。それは彼が、死後の準備として、自らの所有物とみなし、あるいは自分自身の分身とみなしたコマラの繁栄を、自らの意志で滅ぼしたからではないか。
あるいは逆に、暴君であった彼が、幽霊たちのコミュニティから排除されているのかもしれないが。いや、主に一人称で語られる幽霊たちのコミュニティは、そもそも母たち(母であり得たかもしれない者、母であり得なかった者も含む)の場であって、父のため場ではないということかもしれない。だからそこでフアンは「母の息子」として、一方的に聞き役にまわらなければならないのか(「母」ではないスサナの声を聞くために、フアンという媒介が必要だったのかもしれない)。
●あらゆる人物が自らの無力を噛みしめるようなこの小説で、もっとも強く苦く「無力」を表現している人物が、レンテリア神父ではないか。登場人物のなかで最も内省的であり、悪党に支配された地区の神父として死者に許しを与えるという自分の存在の欺瞞に自覚的であり、それをニヒリスティックに受け流すことも出来ず、繰り返し回帰する強い自責と無力感に苛まれつづけることになる。そしてその末に、銃をとってゲリラ軍に参加する。