2021-11-05

●以下に引用するのは『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)のなかでももっとも美しいと思う場面の一つ。まだ青年だったペドロの元に、ペドロの父の死が告げられる。

しかしこの場面は一筋縄ではいかない。この場面は、(1)既に死んでいるペドロの母親=幽霊が、ペドロに「父の死」を伝える場面、なのか、(2)母の幽霊が、「夫の死」という悲しい場面を死後も何度も反復している、ということなのか、(3)あるいはこの場面全体がペドロの夢であり、父の死を告げられた時の悲しみをペドロが夢で反復している、という可能性もある。素直に読めば(1)ということになると思われ、(2)と(3)の読み方はやや穿ったものなのだが、そのようにも読める可能性があるように書かれているということによって、この場面全体に不思議な浮遊感が生まれていると思う。

濾過器にひとつまたひとつと水滴がしたたる。 石から滲み出た清らかな水が、水がめにポタリと落ちる。その音が聞こえる。耳を澄ます。ざわざわした物音が聞こえる。地面をこする。歩きまわり、行ったり来たりする足音。水滴は絶え間なくしたたり落ちる。やがて水がめから水があふれ、濡れた地面にこぼれる。

「起きなさい!」と誰かの声がする。

その声の響きには聞きおぼえがある。 誰だったかな、と思う。 しかし体がぐったりとして、睡魔の重みに押しつぶされ、また眠りの中に落ちてしまう。手が毛布をつかんで引っぱりあげ、体が安らぎをもとめてその温もりの下に隠れる。

「起きなさい!」とまた声がする。

その声は彼の肩をゆすぶる。上体をさっと起こす。目を半ば開く。濾過器から滴がしたたって水がめの水面をはじく。足を引きずる足音……そして啜り泣き。

そうだ、そのとき啜り泣きが聞こえたのだ。それが彼の目をさました。静かな、かぼそい啜り泣き。おそらくそのかぼそさゆえに、眠気の茂みを貫いて、驚きの巣くっている奥まで達して彼をはっとさせたのだろう。

ゆっくりと起きあがって、戸のかまちに寄りかかっている女の顔を見た。まだ夜が明けておらず、その顔は影になってはいたが、啜り泣いているのは確かだった。

「どうして泣くんだい、母さん」

足が床につくやいなや、そこにいるのが母親であるとわかったのだ。

「父さんが死んだんだよ」

そう言うと、悲しみを押さえつけていたゼンマイが切れてしまったかのように、何度ぐるぐる回りはじめ、誰かの手が肩にのびて、悶える体をおさえつけるまで止まらなかった。空が白んでくるのがドア越しに見えた。星は出ていなかった。鉛色がかった灰色の空があるだけだった。太陽の光線がまだ訪れない空。にぶい光 今から朝がはじまるというより、ようやく夕暮れが迫ってきたという感じだ。

表の中庭では、行ったり来たりする足音が聞こえる。 くぐもった物音。家の中では、女が戸口に立ちつくして、体で朝の訪れをさまたげている。腕のあいだからは空の切れ端が見え、足元には光が射し込んでいる。光がこぼれて、床はまるで涙で濡れたようになっている。 それから例の啜り泣きだ。やわらかだが甲高いあの啜り泣きがふたたび聞えてくる。身をよじらせる悲しみ。

「父さんが殺されたんだよ」

「じゃ母さんを殺したのは誰?」》

冒頭の濾過器と水がめの描写。なにかがゆっくりと蓄積し、ひっそりと誰にも意識されないままにそれが満ちていき、ある時不意に、しかしあくまで静かに、なにかがあふれ出てしまうという感覚。

そして、《足が床につくやいなや、そこにいるのが母親であるとわかったのだ》という「分かり方」。これは、通常の知覚による物事の把握の仕方とは根本的に異なっている。夢のなかで何かを理解する時の分かり方であるか、あるいは、常識的ではないもの(この世ならざるもの)の存在を把握する時の分かり方だろう。そして、最後のペドロの言葉によって、この母親はこの世のものではないのだろうと推測される。