2022/02/11

●U-NEXTで『夢の涯てまでも【ディレクターズカット版】』(ヴィム・ヴェンダース)が観られることを知って、観た。この4時間47分バージョンは、2015年に、様々なバージョンがあるこの作品の決定版としてつくられた、と。日本で普通に観られた2時間48分バージョンは、あまりにもあんまりな感じだったし、この作品を境にヴェンダースがガクッとつまらなくなったりしたのだった。でも、改めて(不満なところまで含めて)いろいろ「なるほど」と思えたので、観られて良かった。久々にヴェンダースの面白い映画を観た。

●あと30分くらい長くても良かったのではないかとも思ったが、そこが難しいところというか、おそらくそれでは根本的な解決にはならないのだろう。やはりというか何というか、ヴェンダースロードムービーの魅力的な時間のあり方と、物語を語ることとは、根本的に相性がよくないのだということを、この作品はかなりはっきりと示している。2つを両立させようとすると、このくらいの上映時間が必要になり、そしてそれでもなお、この2つは上手く混じり合わない。『パリ、テキサス』や『ベルリン 天使の詩』では、絶妙なバランスで2つを同居させていたとも言えるが、ロードムービー的な時間の方に大きくウェイトが置かれていた(勿論、ヴェンダースにも『緋文字』や『ハメット』のような「物語を語る」作品はあるが)。しかしこの作品を境にして、これ以降は物語を語ることに重きが置かれるようになったのではないか。ただ、そうなるとヴェンダースは、割と凡庸な物語を語る人みたいになってしまう。

●すっごい雑なまとめ方をする。まず、この物語は作家(小説家)によって語られる。小説家と同居していた女が、彼の元を離れ、世界をまわって「映像」を収集している男に惹かれるが、その果てに、映像=夢=自己愛の罠(沼)にハマってしまう。そしてその状態(薬物中毒のように自己愛的な夢=映像中毒になってしまう)を、小説家が語り---書き---続けている「(「言葉」による)この物語」によって救う、という話だ。そして、言葉と映像の間を、とても軽やかに(理想的なものとして)「音楽」が絡まりながら併走する。とはいえ、この作品において「この物語」は映像と音声によって語られているのであって、映画のなかで小説家がタイプを打っている、その「紙に書かれた言葉そのもの」によってではない。

夢を自己愛的なものとしてだけ扱うことにそもそも不満なのだが(そして、映像化された「夢」があまり魅惑的なものとは思えないという点がこの作品の致命的な欠点だとも思うのだが)、自己愛的な映像の罠にはまってしまう女と男というのは、かつてシネマテークに通い詰めて映画を観るためだけの生活を送っていた若い自分への批判的視線なのかもしれない。とはいえ、この物語は映画として語られている。つまりヴェンダースの態度としては、映画には映像だけでなく、それを批判するものとして言葉や物語が必要だ、というところにあるだろう。そこから、この作品以降の「物語への傾倒」が導かれるのではないか。しかしそもそも、ヴェンダースロードムービーの魅力は映像(視覚像)そのものというよりも、それがつくりだす「時間」にこそあったのではないかと思う。

●言葉と映像(=夢)というのはすごく雑な対立で、実際はもっと複雑なイメージの配列がなされている。この作品では常に「音楽」が鳴っている。夢=映像が人を孤立させるのに対し、音楽はいとも簡単に対立的であった人々を結びつける。そういう意味では、夢と対立するのは言葉であるより音楽である。しかし夢がかならずしも自己愛的であるとも限らない。この物語は、ソルヴェーグ・ドマルタンが悪夢を見てよく眠れないというところから始まり、彼女がウィリアム・ハートに惹かれるきっかけは、彼の傍らだと悪夢を見ることなくぐっすりと眠れるということだった。二人の関係を媒介するのは「夢(夢を見ないこと)」なのだ。それから、オーストラリアの現地の人々は「夢」を共同性のための媒介として扱っていて、孤立を生むものではない。

「映像」といっても、ウィリアム・ハートが世界中を旅して収集している映像(外を映すもの)と、夢を録画する装置によって現われる映像(内を顕在化するもの)は同じとは言えない。そもそも、盲目の母親(ジャンヌ・モロー)に見せるために映像を収集することが、夢を顕在化して記録・再生することへと目的が内向きに転換してしまうのは、母の死を受け入れられない父(マックス・フォン・シドー)の動機に基づくものだ(死者と夢で会いたい)。だが、この外から内への転換に個人的な動機だけでない必然性があるのは、映像というものが基本的に「いま、ここにはないもの」を出現させる装置であるということだ。盲目の母が見るのは、既に撮影された光景であり、我々がこの映画で観ているのは、1990年から91年の世界であり、それは今、ここあるものとは違う。そこから必然的に、映像は(既にない)死者を召喚し、表象し、その不在を埋める装置となる。実際に主演のソルヴェーグ・ドマルタンは2007年に亡くなっていて、我々は、今はいない彼女を見ている。

(不在を出現させる「映像=夢」の媒介により、マックス・フォン・シドージャンヌ・モローとの過去に埋没し、ソルヴェーグ・ドマルタンは幸福な幼少期に埋没する。)

「言葉」でも、サム・ニールが二年かけて執筆していた小説のデータは電磁波の障害の影響で消失するが、紙にタイプライターで打たれた言葉は女を救う(これはメディアの違いによる状況への対応の違いであり、安易にテクノロジー批判ととらないほうがいいと思う、映画のラストは宇宙ステーションの中だ)。サム・ニールは小説家という設定だが、映画のはじめからずっとピアノを弾いてばかりで「書いている」場面がない(当初から「声」による語り手ではあるが、書く人ではない)。彼が書き始めるのは、電磁波によって新作のデータを失ってからであり、「世界の終わり」の後にタイプライターを発見した映画の終盤に限られている。彼は、まずは世界の危機、次にソルヴェーグ・ドマルタンの危機に直面することで、(リュディガー・フォーグラーの言う「言葉は役に立たない」というニヒリズムに抗して)「書く」ことができた。

ヴェンダースはこの作品で「ヴェンダース・バージョン1」としてやるべきことはすべてやり切ったと思ったのではないか。だからこれ以降はまた別の「ヴェンダース・バージョン2」を探すのだ、と。不満や弱い点などもあるとはいえ、「ディレクターズカット版」を観て、この作品が(「弛緩のはじまり」ではなく)そう思える程に充実したものであったことが確認出来たことはとてもよかった。

また、今ではすっかり忘れてしまっているが、この物語は「1999年に空から恐怖の大王が降ってくる」というノストラダムス話でもあるのだと気づいた。