07/12/23

●『昼顔』(ブニュエル)をDVDで。この映画ってつまり、カトリーヌ・ドヌーヴに、あんなことやこんなこともさせてみたい、という映画なのだけど、それがここでは不思議なくらいエロくない。この映画には、見せると思わせてはぐらかしたり、もったいぶってじらしてみせたり、あるいは逆に、あるイメージを濃厚にたっぷり見せたり、というような、誘惑の素振りというのが一切ないからだと思う。カトリーヌ・ドヌーヴは、縛られ、服を破られ、むち打たれ、泥を投げつけられ、頬を叩かれ、いろんな服を着ては脱ぎ、髪をほどき、サングラスをかけ、下着姿になり、背中を見せ、手荒く扱われ、窮地にたたされ、等々、紋切り型のポルノ的イメージを次々となぞるのだけど、それが、はい次これ、その次はこれ、みたいにして、一定の速度でサラサラ流れて行く。ここでは、様々なポルノ的イメージにまみれながらも、決して気高さを失わないカトリーヌ・ドヌーヴの美しさが讃えられているわけでも、勿論ない。逆に、紋切り型のポルノ的イメージのチープさと、これみよがしに戯れているのでもない。カトリーヌ・ドヌーヴは確かにとても美しいのだが、その美しさは、この映画の進行と同じように、きわめて素っ気ないもののように思われる。美しさが汚されることがないとしたら、それはその素っ気なさによる。イメージは次々と逃れ去ってゆくのだが、それは、誘惑の身振りとして逃れ去るのではなく、たんに機械的なリズムで、順々にあらわれては、逃れ去って行く。あまりの素っ気ないので、そこに近づくことも、それを汚すことも出来ない。それはただ、機械的に、段取り通りに、浮かんでは過ぎて行く。(娼館の「教授」と呼ばれる客が、段取りに厳しいのと同じように。あるいは、冒頭の馬車のシーンで、カットがかわっても延々とつづく馬の足音のリズムのように。)カトリーヌ・ドヌーヴのうつくしさに魅了されながらも、そのイメージは、街中でたまたますれ違った美人を、振り返ってすこしだけ目で追う、という以上の関係をイメージとの間でつくることができない。ブニュエルはこの映画で、ある意味では思い切り好き放題のエロ爺いなのだが、しかし、そのイメージの進行をほんの一時も滞らせ、遅延させることがないという意味では、きわめて禁欲的なのだ。(立ち止まって、イメージを惚れ惚れと眺めることがないし、ましてや、それに触れるかのように迫ろうとはしない。)ブニュエルにとってはそのくらい、機械的な時間の進行のブレのなさというのは、絶対的な「世界の法則」なのではないだろうか。
ブニュエルが興味があるのは、イメージそのものではなくて、イメージが生起して動いてゆくカラクリの方なのではないだろうか。イメージはあくまでもカラクリ通りに、そのメカニズムに沿って動くべきもので、そこには予測不能な出来事は起こらない。その段取りのなかに巻き込まれるカトリーヌ・ドヌーヴが、そこで何を考え、何を感じているのかは、まったく分からない。ただ、その身体に、機械仕掛けの人形となって段取りを通り抜けるという受苦が突きつけられる。「ある段取りを通り抜ける身体」のイメージを、我々は観ている。その時、それを観ている者の欲望は、その段取りによって押さえつけられ、型付けられているのか、それとも、そもそも、そのような段取りによってこそ、欲望が生起するのだろうか。