07/12/24

●『欲望のあいまいな対象』(ブニュエル)をビデオで。物語としては、いかにもオヤジがよろこびそうなエロ話のネタと大差なくて、おっさんが女の子といい感じになる→もうすこしでなんとかなりそうだ→しかしその直前で思ってもみない抵抗に出会う(猥談ではここが笑うところ)...→二人の仲は決裂(だがおっさんは諦めきれない)→しばらくすると偶然出会ってまたいい感じに...というのが何度も繰り返され、繰り返されるごとに話が大袈裟にエスカレートし、かつ、おっさんのイライラも募ってくる。この映画では、いいようにもてあそばれるおっさんの側にも、誘惑してははぐらかす女性の側にも重点はなくて、単調な誘惑とはぐらかしのプロセスの繰り返しが示される。いや、視点はあきらかにおっさんの側にあって、だからこそその欲望の対象である女性のイメージが確定できなくて揺れ動く(二人一役)のだけど、しかしここで語られる物語がそもそも、(とりあえずは)全てを清算した後のおっさん自身の口によって、過去の既に済んだ出来事として(まるで他人事のように冷静に)語られるので、迫真性は後退し、淡々とした図式的反復が強調される。(この物語はパリへと帰る電車のなかで語られ、この電車の規則的な進行が、物語の単調な展開と重なる。)おっさんのイライラは、みぞおちのあたりのわだかまりのようなものに留まり、それはおっさんを狂わせることはあるかもしれないが、世界の秩序、あるいは映画の進行の秩序を揺るがすには決して至らないだろうという範囲内にある。(水をかけようが、かけられようが、電車は一定の速度ではしる。)
たんなるオヤジの猥談のような話が、下品にも退屈にもならずに、単調な反復のその単調さに安心しつつも、その都度の新鮮さを生みつづけるは、やはりこの映画でも、ブニュエルの関心が、反復されるイメージそのものであるよりも、反復と展開のメカニズムにあり、そしてその底には、時間の客観性への揺るぎない信仰のようなものがあるからだと感じられた。(ブニュエルの映画からは、どこか神学的な禁欲性が感じられ、例えばヒッチコックのような「淫ら」さはないし、パゾリーニとかフェリーニとかにある「雑」への指向もあまり感じられない。)
しかし、この映画で目立つのはそのようなことよりも、世界の法則でもあり、カラクリの仕掛けでもあるような、淡々とした進行の外側にあるものが、これ以前の映画に比べてより大きくあらわれている点だろう。爆発ではじまり爆発でおわるという印象のこの映画では、世界のカラクリや、時間の進行の客観性そのものを破壊しかねないものが、テロリストの暴力として、男と女の欲望のお話とはまったく無関係に作品に粗暴に介入してくる。(以前の映画でも、自律したカラクリをその外側から脅かすものの気配は、常にちらついてはいるのだが。)電車を降りてからもなお、延々と(永遠に)つづくかのような男と女の欲望のカラクリ仕掛けは、暴力的な爆弾の炸裂によって、その根底からあっさりと破壊されてしまう。この、テロリストたちの挿話は、おっさんと若い女との欲望のカラクリのお話とはまったく絡んでなくて、作品としての内的な必然性は乏しく、きわめて唐突で恣意的であるようにもみえる。(たんに時代の空気の反映でしかないようにもみえる。)しかしおそらくそうではない。ブニュエルの禁欲性はもともと、この外的な暴力に対する防衛としてこそ、要請されていたものなのではないだろうか。六十年代後半につくられた完成度の高い作品とは違って、この遺作となった作品では、もはや(現実そのものであり、死そのものでもあるような)唐突な爆弾の炸裂に拮抗できるほどの、強く自律したカラクリをつくり得なくなっている、ということだろうか。しかし、そのことによって、この映画には異様なリアルさが刻まれているようにも思える。