●『皆さま、ごきげんよう』(オタール・イセオリアーニ)をDVDで。なんて苛烈で、荒々しい映画なのか。フランス革命で、貴族の首がギロチンで落とされ、民衆が歓喜する場面からはじまり、戦場で、兵士たちが人々を襲い、殺し、強姦し、そこで奪った金品を、兵士の一人が自分の恋人へのプレゼントとして、二人は熱く愛を語る。そのような場面が、露悪的なユーモアさえ漂わせることなく、散歩の時に通り過ぎた風景のように語られ、そして話は現代に達する。
(これらの出来事は、たとえばブニュエルの映画のようには、決して象徴的な次元に還元されることがない。)
主人公の二人の老人は、一人は、ギロチンで切り落とされた頭部に執着するかのような人類学者(?)であり、もう一人は、古書と武器とを交換する武器商人だ。つまり彼らは過去(映画の冒頭)の暴力と直接的に繋がっているような人たちだ。彼らが、ローラースケートなどを駆使して集団で窃盗をする若く貧しい窃盗団や、古い建物を占拠する人たちと親しいからといって、彼らは決して強権的な体制に対して弱者を擁護するリベラル派などではないだろう。彼らこそがおそらく暴力の体現者であり、人を殺して奪った金品を恋人にささげる兵士の末裔であろう。ただたんに、既に年老いてしまっているから、それなりに穏やかにみえるだけだろう。
お金持ちはお金持ちであり、貧乏人は貧乏で、犯罪者は犯罪をし、兵士は暴力の限りをつくし、親は娘を監視し、為政者は弱者のことなどおかまいなく官僚的にことをすすめる。勿論、人と人との間で起こることなのだから、そこにも、親しみ、愛情、共感、いさかい、嫉妬、憎しみ、などか生じるだろう。しかしそれは、ノイズや軋みのようなもので、そういうこととは関係なく、人間世界の事柄は進行する。
しかし一方で、この映画では、そのような人間的なノイズや軋みこそを、もっとも重要なものとして(きわめて抑制的に)謳い上げているとも言える。人は暴力を行使し、無慈悲に人から奪い続ける。しかしそれでも、そのような、奪い、奪われる人たちの間にも、共感や友情や愛情のようなものが芽生える。あるいは、「盗み」という目的のために非常に魅力のある「躍動的な運動」が生まれる。無慈悲に奪いつづける側にいる人が、高貴な存在だったりもする。それでも人は、時としてとても楽しいのだ。それこそがとても貴重なものだ。しかし、それによって何かが変わるわけではない。奪う者は奪いつづけ、奪われる者は奪われつづける。おそらく有史以来ずっと。
そして、そのような人間世界を相対化するように、時として、動物がフレームを横切っていく。この、動物の眼差しは、半ば冥界からの眼差しのようでもある。動物たちによって相対化される世界では、人間など、それが誰であろうと、ローラーに轢かれて簡単にぺしゃんこになってしまう程度のものだ。これは、人間が人間に対して行使する暴力とはまた別の、この宇宙の理だ。偉そうなおっさんが、マンホールから落ちて、沼のほとりのような場所に強制転送されることとかも、人間的なできごととは別の次元のできごとだろう(だからこれは、人間的な---象徴的な---意味での貴/賤の逆転ではない)。この、動物たちからの眼差しが、イセオリアーニの映画では強く効いているようだ。
この映画のどこがノンシャランスなのか分からない。これは、人間に対する怒りと絶望に浸された老人が、それでも、人としての最低限の抑制と矜持とを保とうとし、それと同時に、自分の人生に許された快楽の権利を手放さずに最大限に行使しようとする、そのような、剣呑で苛烈な実践のように感じられる。
荒々しく、暴力的で、怒りに満ちているのに、決して激高することなく、あくまで柔軟に、時にユーモアをたたえ、表面的には穏やかに進行するのは、ニヒリスティックな態度によるものではなく、自らが人であることの誇りに由来する、抑制と矜持によると思われる。ヨーロッパには、すごい爺さんがいるものだ。