●ネットフリックスで『ダンケルク』を観たのだけど、これは映画館で観ないと駄目な映画なんだなあと思った。
クリストファー・ノーランは今まで、(これは、良くも悪くもという意味でだが)「知的なたくらみ」のようなものが基本にある(あるいは、まず前に出る)ような映画をずっとつくってきたと思うのだけど、この映画にかんしては、規模の大きさ、臨場感、技術のすごさが何よりまず前にでる。浜辺の一週間、海の一日、空の一時間という、タイムスパンの異なる三つの流れを並行モンタージュするというたくらみがあるにはあるが、そこに、これみよがしな意味があるわけではない。
(意味がないと言っているのではない。意味があるとしても、もっとじわっとくるような意味だ。)
「これは映画館で観ないと駄目な映画だなあ」と思いつつパソコンの画面を観ていて、はじめて『メメント』(2000年)を観た時点では、まさかこの監督がこんなにもハリウッドで出世するとは(こんなにも大規模な予算の映画をつくるようになるとは)、まったく予想もつかないことだったなあと、と、そんなことの方をしみじみと感じていた。『メメント』を観て、凝りすぎるほど凝った知的な技巧によって映画を成立させる人だと思い、こういう人はマイナーな路線で、興行的な問題を批評的な評価によってなんとか折り合いをつけて作品をつくっていくような(良くも悪くも)「作家」なのだろうと思っていた。
なんというか、これをつくっているのはあの『メメント』の人なのだよなあ、と、ことの成り行きの予測のつかなさというか、時の流れによる過去のはるかな遠ざかりというか、人生の不思議さというか、そういうことの方を強く感じながら観ていた。
(もちろん、その間に『ダークナイト』も『インセプション』も『インターステラー』もあるし、いきなりこうなったというわけではないのだが。)
●この映画は「兵士たちを救う」作戦---意思---を描く映画なのだが、しかし、そうだとしても全員が救われるわけではなく、何人もの兵士たちが「救われる」ことに成功せずに死んでいく。ここで、誰が生き残って、誰が生き残れないのかを分ける決定的な要因は偶然でしかない(作戦全体は「意思」であり、その意思が三十万人以上の兵士を救うのだが、個別の生死は「偶然」だ)。ちょっとした要領の良さや押しの強さなどが命運を分けることがあっても、それは決定的な要因ではない。主人公といえる二人---というより、たんにこの映画の「軸」としての役割を担うために大勢の兵士たちのなかからたまたまマーキングされた二人といった方がいいだろう---は、最後まで生き残ることが出来るのだが、それは偶然の積み重ねによってであって、彼らに特別な能力や才覚、あるいは何かしら作戦や特別なモットーや信仰があったからではない。生死を分ける決定的なドラマが描かれるわけでもない。強いて言えば、彼らはこの映画の最初にマーキングされた二人だから、映画としての軸を通すために最後まで生き残る。結果として最後まで生き残って救われた二人をみて、映画の冒頭近くで二人がはじめて出会った場面を思い出し、それがはるか遠いところにあるように感じられ、「時の流れによる過去のはるかな遠ざかり」を感じる。あの時点では、たまたま会ったこの二人がまさかこんなところまで生き延びてずっと一緒にいるとは思わなかった、と。