『ホワット・ライズ・ビニース』『ソドムの市』『LOFT』

●『LOFT』(黒沢清)を観たことで改めて観直したくなった二本の映画をDVDで観た。ネタ元であるゼメキスの『ホワット・ライズ・ビニース』と、高橋洋の『ソドムの市』。『ホワット・ライズ・ビニース』は普通に良く出来たサスペンスだと思うけど、もし『LOFT』を観なかったら改めて観ようとは思わなかっただろう。つまり、ぼくにとっては『LOFT』との比較においてのみ、面白く観られる映画だ。高橋洋は徹底した「運命」の作家で、つまり世界のすべてが運命(外傷の反復的な回帰)で埋め尽くされていて、そこには新たなものの到来も未来もなく、つまり時間がない。世界は呪いで埋め尽くされ、何度も殺し、何度も殺され、それでも何度も生き返らなければならないことを運命づけられた登場人物たちには、生も死もなく、主体的な意思もなければ意味もない。世界には「呪い」を何度も回帰させる負の拍動の強度だけがある。『回路』『降霊』『ドッペルゲンガー』『LOFT』とつづく最近の黒沢清の映画は、徐々に高橋洋的な世界に近づいて来ているように思われる。(『アカルイミライ』にのみ、未来へと展開する時間がある。)しかしそこには何か決定的な違いもあるように思う。これらの映画との比較によって、『LOFT』について考えてみたい。
●『LOFT』の中心に中谷美紀がいるということが、黒沢清の映画が基本的に男性の映画であることを揺らがせることはない。女優とは映画の視線に生け贄として捧げられた身体であり、観客の視線に身体を晒すことによって存在する。豊川悦司が幾分かは観客自身、あるいは監督自身であるようには、中谷美紀は主体であることはない。鏡を見る中谷美紀ではじまるこの映画は、彼女が映画の視線を意識し、自身が「美」によってカメラの前にいることを意識していることを示す。冒頭近くの彼女が、タバコを吸っては咳をして、身体を折り曲げて床に突っ伏してまで咳き込み、泥さえも吐き出すのは、彼女の身体が自らが「美」として視線にさらされることを拒否しているからだろう。しかし映画の視線は、そのような姿すら享楽として、美として受け止めるだろう。そして彼女はそのことを知りつつ、それでもカメラの前に立ち、鏡を覗き込む。彼女が「泥を吐く」とき、それは千年前からつづいているミイラの「美への執着」との連続性を示すと同時に、そのような「呪い」を吐き出そうとする拒絶の行為でもある。彼女は「作家」であることで自ら「知の主体」となろうとするが、作家であることそのものが、権力のある男性(西島秀俊)の視線の対象であることによって成り立っていることを、おそらく知っている。だからこそ「通俗的な恋愛小説」を書くことに同意するのだ。彼女にとっての呪いは美であり、自らの欲望としての「自身の美への執着」であろう。そして彼女にとって豊川悦司が特権的な恋愛の対象であり得るのは、もしかすると彼との関係によって、その呪いから自由になることが出来るかもしれないと感じるからだ。
豊川悦司もまた、ミイラを自身の手の内の置こうとする行為から分る通り、「美」を享楽の対象とする男性であり、彼にとっての呪いは、美に引きつけられ、美的な対象に視線を釘付けにさせられるということだ。しかし彼は美(ミイラ)を手にしながらも、それに対して何もすることができない。ただ、美に視線を釘付けにされ、そのまま身動きが出来なくなってしまっている。西島秀俊が、美の対象を自らの占有下に置こうとするだけでなく、殺そうとする(つまり無理矢理性交しようとする)のとは違っている。彼が中谷美紀に「恋をする」のは、磨りガラスごしに彼女の顔を見る時であり、つまりその時、彼女に触れることが出来ないばかりか、彼女からは見られていない。これはまさに映画を観る観客そのものだ。怪奇映画を観る観客は、映画のなかの殺人をただ見て恐怖するだけであり、その場に介入することは出来ない。つまり、殺される女性を助けることも出来ないし、それに巻き込まれて自分まで殺されることもできない(犯人とともにその女性を殺すことも出来ない)。だから観客は、生き残ったままで殺人場面(死の恐怖と享楽)が何度も回帰しつづけるのに耐えることを強いられる。彼にとって美とはそのようなものであろう。(キスシーンはあっても、豊川と中谷には直接的な身体的接触がほとんどない。豊川が身体的になまなましく接触するのは、ミイラをメスで切り裂こうとする時であり、一度死んだ安達祐実を再び殺そうとする時であって、両者とも死者であって、豊川は生きている女性とは身体的な接触がない。)
「見られることを見る」ことの欲望と恐怖と、「見ることを見る」ことの欲望と恐怖。この二人がかかっている「呪い」は別のものなのだ。中谷美紀にとって豊川悦司はミイラを欲望するというより、科学=知によってミイラの呪いを解こうとする者であるように見える。そして豊川悦司にとって中谷美紀は、自分から動くミイラ、こちらに働きかけ、こちらからも働きかけることの出来るミイラであるかのように見える(それは磨りガラス越しに見られる彼女のイメージによるだろう)。しかし豊川悦司もまた一面では、ミイラを自らの手中に置こうとする欲望をもつ者であり(つまり中谷にとっては西島の反復であり)、中谷美紀もまたミイラの呪いのもとにある者(つまり豊川にとってはミイラや安達祐実の反復でもある)なのだ。『LOFT』が恋愛映画であるとすれば、それはこのような組成の異なる「呪い」同士に関係(のすれ違い)によってであり、この映画がひどく混乱しているように思えるのは、監督の黒沢氏が、この異なる「呪い」を時に混同してしまっているようにもみえるからだろう。(混乱しているからこそ、最後に強引で安易な結末がくる。)
●『ホワット・ライズ・ビニース』の女性主人公もまた、度々鏡を見る。しかしその時、自らの「見られる」欲望を「見る」ことを意識してはいなくて、幽霊と遭遇し、接触する場として鏡面(水面)があることになっている。鏡面と水面とがイコールで結ばれるのは、その下に深い底が想定されているからだ。彼女が、隣の奥さんをのぞき見し、鏡や水面に幽霊を見る時、そこに見ているのはあきらかに自身の分身であり、それは抑圧された、夫への不満(隣の奥さん)と夫への不審と恐怖(幽霊)に対応している。この映画で真に湖の底に「隠されている」ものは、夫の秘密ではなくて彼女の夫への「気持ち」であり、湖の底は彼女の心の底で、だから結局はこの映画は「女主人公の気持ち」の中の世界であり、だからこそ映画は(恐怖の対象がどんどかズレていったとしても)作品として破綻なく統合されている。(だから退屈である。)しかし『LOFT』においては、中谷の欲望にも豊川の欲望にも、どちらにも統合されていない。だから面白いとも言えるし、だから破綻しているとも言える。
●『ソドムの市』においては、あらゆることが反復であり、その反復を誰にも止めることは出来ず、ただひたすら反復を反復させるための強い拍動のみが世界を動かす。主体的な努力ではどうすることもできない拍動の絶対性が、運命と呼ばれ、そこに無常観や悲しさが漂い、その感情が作品の意味となる。(最後に「合掌」という文字が出る。)だからこれは、主体的な模倣としてのパロディとはまったく異なるし、ましてや「笑いをとろう」という意図からはかけ離れている。(結果として笑うしかないとしても、)あらゆる出来事が徹底して逃れられない反復であることが重要なこの映画では、例えば主演女優といってよい小峰麗奈の容姿は、彼女が三百年前に死んだ女の生まれ変わりであることを示す記号的な意味しかもたず、せいぜい、若くて綺麗な(高橋氏好みの、ちょっと影のある感じの)女性であればよい、という意味しかない。つまり、主演が小峰麗奈であることが、作品に決定的な影響を及ぼすことはない。相対的に適当だったか、そうでなかったかくらいの重要性しかないだろう。対して、少なからずゴダールの影響を受けたりしている黒沢監督の『LOFT』においては、主役の女性の役を中谷美紀が演じることはもっと大きな意味をもつ。つまり、ある役にある女優をあてるというだけでなく、主役を中谷氏が演じるということは、(実在する、今、ここにいる)「中谷美紀」を撮る、ということでもある。中谷美紀中谷美紀であること、豊川悦司豊川悦司であることは、作品の有り様に決定的なものを刻みつける。安達祐実は、ある意味で中谷美紀の分身という役割でもあるのだが、しかしそのような役割以前に(実在する)「安達祐実」でもある。これはもしかすると、高橋=黒沢的「運命論」を裏切る(破綻させる)契機と成りうるかもしれないものなのだ。
●あと、雑草について。ぼくは最近の黒沢映画では以前よりも風景の力が弱くなっているように感じる。『勝手にしやがれ!シリーズ』で、プログラムピクチャー的な嘘くさいお話が、現実の東京のリアルな風景のなかで繰り広げられることで、独自の奇妙な感触を得ていたのに比べて、最近の作品の(廃墟的な建物も含めた)風景はどこか(記号的とまでは言わないけど)抽象的なものになっているように思う。『LOFT』の二つの向かい合う建物にしても、それが「現実にある」ことの生々しさよりも、映画の雰囲気に適当の合っている建物が探された、という感じで、それが「現実にそのようにあってしまう」ことの説得力が画面からあまり感じられないと思う。だが『LOFT』では、建物のまわりに生えているまったく手入れされた気配なく生い茂っている雑草に、何故か凄く目が引きつけられて、そこから、人間たちの欲望の絡み合いを超えた力の、禍々しい現れが感じられるようにみえた。