(ちょっと、昨日のつづき)
●『贖罪』を観たときも、まず「お話」が面白くない(というより、『贖罪』の場合は「受け入れ難い」という感じだったのだけど)という違和感が強くあった。でも、その話のつまらなさの隙間から「黒沢清の映画」としか言えない何かがぐわっと飛び出してくるところが多々あって、ずっと、否定も肯定もし切れないもやもやした感じのままで観つづけていたのだけど、最後の小泉今日子のパートに至って、「お話のつまらなさ」を「黒沢清の映画のすごさ」がパーッと振り切って、最終的には「やっぱ黒沢清すげえ」という感想になった。
『リアル』の場合は、始めから一つ一つの場面がすごくて、うわっ、キレキレだなあと思うのだけど、キレキレなのにもかかわらず何故か高まってこないというか、この場面はこういうことですごいのだなあと理解はするものの興奮に繋がらなくて、何故興奮しないのか何が違うのだろうかとずっと思いながら観ることになった。
例えば、中谷美紀はいきなり変で、顔つきもおかしいし、居る位置も変だし、喋り方もおかしい(黒沢清の映画でこんな喋り方をする人はあまりみない)。でも、この「おかしさ」が、「おかしさ」として理解可能な「おかしさ」で、理不尽な「おかしさ」にはみえなかった。例えば『LOFT』の中谷美紀のクローズアップは理不尽に「おかしい」ようにみえるのだけど、それとは違っている。いや、これはもう何が違うのか言っている本人も分かっていないので、根拠のない言いがかりのようなもので、この「おかしさ」がぼくには魅惑的な「おかしさ」には感じられなかったというあやふやで主観的なことなのだけど。
(この「おかしさ」の意味は物語的に一応説明がつくようにつくられているのだけど、そのせいなのかどうかも分からない。)
だから、この映画を観て「興奮しない」のは、たんにぼくの側の何かしらの気まぐれに過ぎないのかもしれないとも思っていたのだけど、そう思っている時に、(昨日の日記に書いた)「綾瀬はるかの落下」があって、覆われていたヴェールがそこだけ破れて何かが突出してきた感じで、「黒沢清キターッ」みたいな感じになったので、ぼくが黒沢不感症になったというわけではないのだと思う。
自分でも何を問題にしているのかよく分かっていないのだけど、これに似た感じを持ったのが『エレニの旅』を観たときで、どこからどう見てもアンゲロプロスの映画としか見えない映画なのに、「アンゲロプロスを観る興奮」がまったく得られなかった。どこが違うのかよく分からないし、一度観たっきりなので、その時の感覚がたまたまおかしかっただけなのかどうかも分からないのだけど。